出生から木喰との出会いとは? わかりやすく解説

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出生から木喰との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 07:51 UTC 版)

木食白道」の記事における「出生から木喰との出会い」の解説

『萩原木食繁昌』『天満宮縁起』円福寺位牌拠れば白道甲斐国山梨郡萩原村上原(わはら、山梨県甲州市塩山上萩原上原)に生まれる。父は与左衛門俗姓小野幼名不詳。「納経牒」に見える「宗安」が白道の僧名であると考えられている。 生年円福寺位牌には見られず、寛延3年1750年)とする説があった。清1975年新出史料であった『萩原木食繁昌』を基に生年宝暦5年1755年)と推定した2008年には木下達文が『法幢過去帳』に白道没年終焉の地没年齢が記載されていることを発見し生年宝暦5年確定させた。 幼少期宝暦11年1761年)に、同じ上萩原村甲州市塩山上萩原)に所在する曹洞宗寺院法幢院(ほうどういん)で出家し父とともに諸国廻国巡礼する。『古日記によれば西国三十三番霊場四国八十八ヶ所巡礼途上伊予国で父を失う。その後六十六部聖となり北陸地方佐渡島廻国し、青年期安永2年1773年)には信濃善光寺参詣などを行い再び甲斐へ戻る。 翌安永3年1774年)には再び旅立つ上野国へ赴き、同年5月には妙義山納経行っている。翌安永4年1775年)から安永6年1777年)には常陸国から東北地方旅し納経を行う。 白道安永7年1778年)に蝦夷地渡って以降には木喰行道)の弟子となっていることが確認される後述)。「萩原木食繁盛」では白道伊豆国木喰出会ったことが記されているが、その時期は不明木喰側の史料である『納経帳』に拠れば木喰安永2年1773年6月には伊豆滞在していることから、この時期出会ったとも考えられている。なお、「萩原木食繁盛」の記述はあくまで白道伊豆において木喰行者出会ったことを示すものであり、行道との出会いを示すものではないとする説もある。 なお、近世木喰僧は真言宗系と浄土宗系天台宗系の三派が存在し、師の木喰真言宗系とされ、白道同様に真言宗系の木食僧であると考えられている。

※この「出生から木喰との出会い」の解説は、「木食白道」の解説の一部です。
「出生から木喰との出会い」を含む「木食白道」の記事については、「木食白道」の概要を参照ください。

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