武官時代とは? わかりやすく解説

武官時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 18:56 UTC 版)

張学良」の記事における「武官時代」の解説

在学中1919年12月、父の義弟である張作相抜擢東三省巡閲使署衛隊旅営長となり、第2団長経て1920年3月19歳東三省講武学堂卒業し同年6月混成第3旅旅長に任ぜられた。年末には陸軍少将昇格郭松齢混成第8旅と訓練および運営共有するが、軍事知識乏しいため両旅とも実質的な運営は郭が取り仕切っていた。また、郭の提言東三省講武学堂拡充努め将兵中でも特に秀でた者の選抜育成のため、軍官教育班軍官教導団および軍士教導隊設置西安事変時には陸軍一級上将になっていた。これは蔣介石に次ぐ中国の最高軍事指導者地位である。 満州奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国協力的であった1920年安直戦争勃発する19歳張学良は軍を率いて直隷派救援向かい側近郭松齢補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声大い上がったその後1922年第一次奉直戦争では、郭とともに奮戦。しかし、練度不足していた奉天派大敗秦皇島にて孫烈臣とともに和平交渉代表として出席直隷派代表は王承斌)。父張作霖東三省陸軍整理処を創設すると、保安司令部参謀長に任ぜられる。のち孫烈臣総監辞し後任姜登選がなると副監。1924年第二次奉直戦争でも呉佩孚部隊を破るなどの活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった当時奉天軍閥には2つ派閥があった、一つ楊宇霆馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つ張学良郭松齢東三省講武学堂卒業した若手派閥である。両者対日政策などをめぐり対立していた。そんな中張作霖親日的態度に不満を持った郭松齢反旗を翻すと、説得に赴き、郭が捕らわれてもなお寛大な処置求めていた。やがて郭松齢楊宇霆によって処刑され、その死体晒されたと知ると、楊を激しく憎む。彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。 なお1924年12月14日天津訪れた孫文対面

※この「武官時代」の解説は、「張学良」の解説の一部です。
「武官時代」を含む「張学良」の記事については、「張学良」の概要を参照ください。

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