武官時代
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在学中の1919年12月、父の義弟である張作相の抜擢で東三省巡閲使署衛隊旅営長となり、第2団長を経て1920年3月、19歳で東三省講武学堂を卒業し、同年6月、混成第3旅旅長に任ぜられた。年末には陸軍少将に昇格。郭松齢の混成第8旅と訓練および運営を共有するが、軍事知識に乏しいため両旅とも実質的な運営は郭が取り仕切っていた。また、郭の提言で東三省講武学堂の拡充に努め、将兵の中でも特に秀でた者の選抜育成のため、軍官教育班・軍官教導団および軍士教導隊を設置。西安事変の時には陸軍一級上将になっていた。これは蔣介石に次ぐ中国の最高軍事指導者の地位である。 満州の奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると19歳の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年の第一次奉直戦争では、郭とともに奮戦。しかし、練度が不足していた奉天派は大敗。秦皇島にて孫烈臣とともに和平交渉代表として出席(直隷派代表は王承斌)。父張作霖が東三省陸軍整理処を創設すると、保安司令部参謀長に任ぜられる。のち孫烈臣が総監を辞し、後任に姜登選がなると副監。1924年の第二次奉直戦争でも呉佩孚の部隊を破るなどの活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。そんな中、張作霖の親日的態度に不満を持った郭松齢が反旗を翻すと、説得に赴き、郭が捕らわれてもなお寛大な処置を求めていた。やがて郭松齢が楊宇霆によって処刑され、その死体が晒されたと知ると、楊を激しく憎む。彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。 なお1924年12月14日、天津を訪れた孫文と対面。
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