「露探事件」による引責辞職
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「竹内平太郎」の記事における「「露探事件」による引責辞職」の解説
竹内平太郎が駐仏公使館付主席駐在武官としてパリに赴任していた時期、東京麹町の留守宅に「竹内薫」という人物から慰問袋が定期的に届けられていた。1910年(明治43年)春、竹内平太郎が呉鎮守府庁舎で勤務中、官舎に「竹内薫」を名乗る目鼻立ちが整った美しい女性が訪れ、竹内平太郎に面会を求めた。妻の縫子は、「竹内薫」とは初対面であったが、十数年前より慰問袋を送付されていた差出人の人物であり、同姓の親近感から疑いもせずに官舎洋館の応接間に「竹内薫」を通してしまった。お茶の用意をするため、縫子はその女性一人を残して和館に戻り、10分ほどして洋館の応接間に茶菓子を運び入れた時には、既に「竹内薫」は消え去っていた。その後、20分ほどして竹内平太郎が官舎に戻った時に応接間の隣にある書斎を確認したところ、机の引き出しにあった「重要機密書類」が持ちだされていることが判明した。即座に呉憲兵隊に連絡し、呉市内に非常線が張られたものの、「竹内薫」を発見することはできなかった。 駐仏公使館主席駐在武官時代より、竹内はロシアを中心とした列強諸国の軍事情報などの情報収集や諜報活動を続けており、特に露探(ロシアのスパイ・工作員)からは常にマーク・尾行されていたとされている。この露探事件の責任を痛感した竹内平太郎は呉鎮守府の加藤友三郎司令長官に辞職願を提出し、軍令部出仕、待命となり、翌1911年(明治44年)1月に予備役を命ぜられ、49歳で海軍から辞職することになった。その後、竹内少将は長年の軍功に対し従四位に叙せられた。平太郎が辞職したこの事件については、旧海軍関係の公的史料にはほとんど記されていない。著者の母・前田のぶ(平太郎の二女)が縫子(平太郎の妻で、のぶの母)から事件当時の様子を詳しく娘に語ったことにより、平太郎の外孫である筆者が初めて『季刊山陰 第17号』に公開した秘話である。
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