「露探事件」による引責辞職とは? わかりやすく解説

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「露探事件」による引責辞職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 10:22 UTC 版)

竹内平太郎」の記事における「「露探事件」による引責辞職」の解説

竹内平太郎駐仏公使館付主席駐在武官としてパリ赴任していた時期東京麹町留守宅に「竹内薫」という人物から慰問袋定期的に届けられていた。1910年明治43年)春、竹内平太郎呉鎮守府庁舎勤務中、官舎に「竹内薫」を名乗る目鼻立ち整った美しい女性が訪れ竹内平太郎面会求めた。妻の縫子は、「竹内薫」とは初対面であったが、十数年前より慰問袋送付されていた差出人人物であり、同姓親近感から疑いもせずに官舎洋館応接間に「竹内薫」を通してしまった。お茶用意をするため、縫子その女一人残して和館戻り10分ほどして洋館応接間茶菓子運び入れた時には、既に「竹内薫」は消え去っていた。その後20分ほどして竹内平太郎官舎戻った時に応接間の隣にある書斎確認したところ、引き出しにあった「重要機密書類」が持ちだされていることが判明した即座に憲兵隊連絡し呉市内に非常線張られたものの、「竹内薫」を発見することはできなかった。 駐仏公使館主駐在武官時代より竹内ロシア中心とした列強諸国軍事情報などの情報収集諜報活動続けており、特に露探ロシアスパイ工作員)からは常にマーク尾行されていたとされている。この露探事件の責任痛感した竹内平太郎呉鎮守府加藤友三郎司令長官辞職願提出し軍令部出仕待命となり、翌1911年明治44年1月予備役を命ぜられ、49歳海軍から辞職することになったその後竹内少将長年軍功対し従四位叙せられた。平太郎が辞職したこの事件については、旧海軍関係の公的史料にはほとんど記されていない著者の母・前田のぶ(平太郎の二女)が縫子平太郎の妻で、のぶの母)から事件当時の様子詳しく娘に語ったことにより、平太郎の外孫である筆者初めて『季刊山陰 第17号』に公開した秘話である。

※この「「露探事件」による引責辞職」の解説は、「竹内平太郎」の解説の一部です。
「「露探事件」による引責辞職」を含む「竹内平太郎」の記事については、「竹内平太郎」の概要を参照ください。

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