武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまで
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「郭子儀」の記事における「武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまで」の解説
史書をひもといても、出生はもちろん幼少年期から青壮年期に至るまで、その来歴はほとんど記録に残されていない。地方長官の子息であったが、早くに父を喪ったのか、「蔭官」(父祖の功によって官職に就くこと)によって政界入りを果たした形跡はなく、武挙(官僚を選ぶ科挙と同じく武官を選ぶ試験)において優秀と認められて仕官を果たすが(新書・本伝「武挙の異等なるを以て左衛長史に補さる」および徐松 撰/孟二冬 補正『登科記考補正』巻27)、その後、単于副都護・振武軍使に累進していったのは、おそらく中年期以降のことであろうと推測されるだけである。 唐代のみならず中国史上の大人物であり、後世画題として珍重されるほど有名人となるが、このように典型的な晩成型の人物であった。史書によると、玄宗の天宝8年(749年)に木剌山に横塞軍と安北都護府を設置した際、横塞軍使に命じられているのが、年号の確認できる最も早い時期の経歴であり、ときに既に53歳であった。李吉甫撰『元和郡県図志』巻4・天徳軍の条によると、「天宝八年、張斉丘 又た西可敦城に横塞軍を置き、又た中受降城より横塞軍を移して理む」と見え、呉廷燮撰『唐方鎮年表』(以下「年表」という)巻1によると、翌天宝9年まで節度使であった張斉丘の配下にあったようである。 その後、新たに節度使として赴任した安思順・李林甫らに仕え、天宝13年(754年)には、先年に設置した横塞軍の在所の地形が悪く耕作に向かず、人口も少なかったことから、新たに永清柵の北側に築城して横塞軍と安北都護府とを移し、横塞軍は天徳軍と改称された。この功により、子儀はあらためて天徳軍使となって九原郡太守を兼ね、朔方節度右兵馬使に命じられる(以上、新旧書)。くしくもこのときの上司の節度使の安思順は安禄山の従兄(安禄山の養父の安延偃は安思順の伯父)であった(年表および姚汝能撰『安禄山事迹』上巻)。 翌天宝14年11月に安禄山が反する。安思順は以前から安禄山の叛心を進言しており、死罪をこそ免れたが(新書・哥舒翰伝「始め、安思順 禄山の必ず反せるを度り、嘗て帝が為に言はば、坐せざるを得」)、中央に戻される。後任として右兵馬使であった子儀が朔方節度使に昇格し、さらに衛尉卿(五監の一、衛尉寺の長官。従三品)に任ぜられ、霊武郡太守を兼務し、朔方郡の兵馬を率いて安禄山討伐に向うよう詔が下された。一大事出来の情勢であったとはいえ、破格の出世であった。
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