武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまでとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまでの意味・解説 

武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 21:04 UTC 版)

郭子儀」の記事における「武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまで」の解説

史書をひもといても、出生はもちろん幼少年期から青壮年期に至るまで、その来歴はほとんど記録残されていない地方長官の子であったが、早くに父を喪ったのか、「蔭官」(父祖の功によって官職に就くこと)によって政界入り果たした形跡はなく、武挙(官僚を選ぶ科挙同じく武官を選ぶ試験)において優秀と認められ仕官を果たすが(新書本伝「武挙の異等なるを以て左衛長史に補さる」および徐松 撰/孟二冬 補正登科記考補正』巻27)、その後単于副都護・振武軍使累進していったのは、おそらく中年期以降のことであろう推測されるだけである。 唐代のみならず中国史上の大人物であり、後世画題として珍重されるほど有名人となるが、このように典型的な晩成型の人物であった史書によると、玄宗天宝8年749年)に木剌山に横塞軍と安北都護府設置した際、横塞軍使命じられているのが、年号確認できる最も早い時期経歴であり、ときに既に53歳であった李吉甫撰『元和郡県図志』巻4・天徳軍の条によると、「天宝八年張斉丘 又た西可敦城に横塞軍を置き、又た中受降城より横塞軍を移して理む」と見え、呉廷燮撰『唐方鎮年表』(以下「年表」という)巻1によると、翌天宝9年まで節度使であった張斉丘の配下にあったようである。 その後新たに節度使として赴任した安思順李林甫らに仕え天宝13年754年)には、先年設置した横塞軍の在所地形悪く耕作に向かず、人口少なかったことから、新たに永清柵の北側築城して横塞軍と安北都護府とを移し、横塞軍は天徳軍と改称された。この功により、子儀はあらため天徳軍使となって九原郡太守兼ね朔方節度兵馬使に命じられる(以上、新旧書)。くしくもこのときの上司の節度使安思順安禄山従兄安禄山養父の安延偃は安思順伯父であった年表および姚汝能撰『安禄山事迹上巻)。 翌天宝14年11月安禄山反する。安思順以前から安禄山叛心進言しており、死罪をこそ免れたが(新書哥舒翰伝「始め安思順 禄山の必ず反せるを度り、嘗て帝が為に言はば、坐せざるを得」)、中央戻される後任として右兵馬使であった子儀が朔方節度使昇格し、さらに衛尉卿五監の一、衛尉寺長官。従三品)に任ぜられ、霊武郡太守兼務し朔方郡兵馬率いて安禄山討伐向うよう詔が下された一大事出来情勢であったとはいえ破格出世であった

※この「武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまで」の解説は、「郭子儀」の解説の一部です。
「武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまで」を含む「郭子儀」の記事については、「郭子儀」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまで」の関連用語

1
30% |||||

武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまでのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



武官としての仕官から節度使へ昇りつめるまでのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの郭子儀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS