横浜居留地の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:17 UTC 版)
この事件は、東禅寺事件などそれまでに起こった攘夷殺傷事件とは違って個人的な行為ではなく、大名行列の供回りの多数が一斉に斬ったものであり、直接久光の命令こそなくとも、暗黙の了解の下に行われていたことは歴然としていた。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がっていて、下手をすれば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなる。 事件直後、ボロデール夫人の要請に応えて最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスである。騎馬で、まだ続いていた薩摩藩士の行列のわきをすりぬけて生麦に向かううちに、横浜在住の加勢の男たち3人が追いついてきて、やがてイギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらもリチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。 イギリス代理公使ジョン・ニール中佐は、薩摩との戦闘が起こることを危惧して騎馬護衛隊の出動を禁じていたが、それを無視してヴァイス領事が出動したことで、2人の間には確執が生じた。事件当日の夜から翌朝にかけて、横浜居留民の多くが、遺体収容を果たしたヴァイスを支持し、武器をとっての報復を叫んだ。フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールがそれを応援するようなそぶりを見せていたことも、居留民たちの動きを加速した。しかしニール中佐は冷静であり、現実的な戦力不足と全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さえ込み、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いた。
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