開基檀越・総代
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立正同心教会の開基檀越家であり代々総代を務めた横溝家は、日本塗装発祥の地・横浜に於ける塗装業のパイオニアである。明治10年(1877年)に初代・横溝喜之助によって「渋喜」が設立。明治31年(1898年)、アメリカ式塗装術を習得した2代・横溝元次郎が「横溝元次郎塗工店」としてこれを継承、山手・元町・中華街等横浜居留地一帯の洋館や商館の塗装を一手に引き受けた。この業績が横浜をして日本塗装発祥の地たらしめた由縁となっている。 更に昭和6年(1931年)に3代・横溝武雄が継承し事業を拡大、業界の組合や協会の諸事業に積極的に参画する。昭和17年(1942年)、平沼山久成寺中興第2世・妙光院日是の求めに応じて立正同心教会の開創に全面的に協力し開基檀越となる。昭和23年(1948年)には「合資会社横溝塗工店」へと発展、昭和42年(1967年)には株式会社に改組した。また、元町公園に「塗装発祥の地記念碑」を、本覺寺(横浜市神奈川区青木町)に「全国塗装業者合同慰霊碑」を建立するなど、業界全体の物心両面に亘る向上に多大な貢献を果たした。これらの功績が認められ、建設大臣表彰・黄綬褒章・紺綬褒章・勲五等瑞宝章を受賞した。横溝家3代の業績を基盤とし、4代・横溝武矩と5代・横溝隆雄が事業を継承拡大、今日の隆盛を確立し現在に至っている。 また三十番神像を寄進した総代・増田家は“日本潜水の祖”と謳われる増田萬吉を輩出している。増田萬吉は、横浜居留地の英一番館の蔵番を務めた後、和蘭八番館の番頭となりオランダとの貿易を一手に担う事となった。明治5年(1872年)に10台のイギリス製のヘルメット式潜水器とゴム製潜水服を輸入した事を端緒に、自ら製造にも着手。これが日本に於ける本格的な潜水の先駆となった。またゴム製潜水服の製造は、日本のゴム工業の始まりとも言われている。 その後、和蘭八番館館主のノールトフーク・ヘフトの紹介で横浜居留地一帯の清掃業を請け負う事となり、明治16年(1883年)に薩摩町消防組頭の石橋六之助と共に「両名社」及び「横浜商館組」を創設、清掃と消防を事業とした。その後、明治22年(1889年)に「内外潜水業請負会社」を創立、明治28年(1895年)には「沈没船艦引上合資会社」の潜水部主任として活躍し、横浜築港や帷子川導水堤工事に多大な貢献を果たした。これらの業績から“日本潜水の祖”として称えられる事となった。
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