支那事変・太平洋戦争
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「出雲 (装甲巡洋艦)」の記事における「支那事変・太平洋戦争」の解説
詳細は「中国空軍の上海爆撃 (1937年)」を参照 日中戦争(支那事変)における「出雲」は、第三艦隊(司令長官長谷川清中将)の旗艦として上海に停泊した。1937年(昭和12年)7月上旬に生起した盧溝橋事件は、第二次上海事変に発展。上海の黄浦江に停泊していた旗艦「出雲」は中華民国空軍の目標になる。8月14日午前10時以降、「出雲」と第八戦隊は中華民国空軍爆撃機(10機程度)の攻撃を受けた。または、10時55分に第八戦隊が爆撃機5機に、11時22分に「出雲」が爆撃機3機に爆撃された。攻撃したのは広徳より発進したノースロップ2E爆撃機で、「出雲」などに命中弾はなかったが中国側の損害もなかった。中華民国空軍による「出雲」爆撃は上海共同租界の諸外国に通知されており、外国人達は1時間程迄前から建物の屋上に鈴なりになって「出雲」が沈没する様子を見ようと期待していた。ところが「出雲」の対空砲火で中華民国爆撃機は爆撃針路を変更、外れた爆弾で観戦者達に死傷者が出た。源田実(当時、第二連合航空隊参謀)は「中国側も中国側であるが、他人の命がけの戦争を高みの見物としゃれる方もしゃれる方である。天罰覿面という所か。」と回想した。同日、「出雲」と軽巡洋艦「長良」搭載の水偵各1機は敵飛行場や陸上部隊攻撃および上空警戒に従事し、中国軍機との交戦でカーチス・ホークIIIを1機撃墜した。 8月16日、「出雲」は中国の魚雷艇による雷撃を受けたが、魚雷は外れた。 1941年(昭和16年)9月1日、支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎大将(海兵32期)が海軍大臣に補職され、後任の支那方面艦隊長官は古賀峯一中将(海兵34期)となった。長官交替のため、「出雲」は一旦内地に帰投する。新司令長官を迎えたあと、再び上海に進出した。係留中、「出雲」の甲板は砂摺りされて真っ白で、複雑な国際情勢下で軍規も厳しかったという。また上海の租界地で便衣兵による事件が起きた際には、出雲の海軍陸戦隊が派遣されることもあった。主燃料は石炭なので、月一回の搭載作業は大変な苦労がともなった。 1941年(昭和16年)12月7日の時点で、上海市黄浦江に停泊中の「出雲」周辺には、砲艦「鳥羽」、駆逐艦「蓮」、米砲艦「ウェーク」、英砲艦「ペテレル」、イタリア砲艦「エリトリア」や「コンテベルデ号」が停泊していた。12月8日早朝(上海時間午前4時30分)(日本時間午前5時30分)、真珠湾攻撃とともに日本軍軍使はイギリス砲艦「ペテレル」に降伏を勧めたが、「ペテレル」側は拒否した。日本側艦艇は共同で「ペテレル」を撃沈した。アメリカ砲艦「ウェーク」は降伏、拿捕された。なお、ウェークは第二次世界大戦で唯一敵に降伏したアメリカ海軍の艦船となっている。 開戦と同時に、上海所在の日本軍は連合軍船舶の拿捕を開始、「出雲」も海軍陸戦隊を派遣した。1942年(昭和17年)1月下旬、「出雲」は南京所在の汪兆銘政権(首席汪精衛)を公式訪問するため、長江を遡江した。南京では、南京政府主席・支那方面艦隊・陸軍部隊中支方面軍表敬訪問などの公式行事が行われた。一連の行事を終え、「出雲」は上海に戻った。7月1日、日本海軍は海防艦の定義を大幅に変更。航行能力のある軍艦3隻(八雲、出雲、磐手)は海防艦から一等巡洋艦に類別変更された。 1943年(昭和18年)より内地に帰投。瀬戸内海で練習艦として運用された。1944年(昭和19年)2月20日、練習兼警備艦に指定される。1945年(昭和20年)7月24日に呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底、3名が死亡した。姉妹艦「磐手」も呉軍港空襲により損傷・着底した。 広島県、江田島市には、共に小用港沖で戦い戦没した戦艦「榛名」と合同の戦没者留魂碑が小用港沖を望む丘の上に建てられている。
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