支那事変記念章
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支那事変記念章 表面 裏面 綬の配色 最後に制定された記念章である。原型製作は加藤正巳。章の表面の桜花は「一億国民の銃後の赤誠」を表現したものとされる。1942年(昭和17年)7月6日、銃後において総力戦遂行の業務に従事し軍務を幇助する者を表彰する記念章が必要であるとして、「支那事変銃後奉公記章」の制定を求める賞勲局請議が出された結果、「支那事変記念章」の名称で制定されるに至った。記念章制定の背景には、それまで軍人・軍属以外の者が軍務を幇助して功績を挙げた場合、その表彰は従軍者同様に従軍記章の授与でもっぱら済まされていたのに対し、日中戦争に続いて太平洋戦争へと戦線が拡大した当時、国家総動員法の下で国民の軍事的奉仕活動は従前の戦争よりも大規模化・多様化したため、特別に記念章を設けて軍務幇助に貢献があった者へ授与する必要が出てきたことがある。官公職、議員、防空・警防関係、刊行・出版物関係、貯蓄金融公債関係、学校・青少年団・宗教団体関係、農林水産業公共団体関係、商工業公共団体関係、電気・通信・船舶・航空関係、鉄道運輸関係、軍人援護社会事業関係、その他、というように官民や内地・外地の区別なく、合計約470万人という広範囲かつ多数の人々に同章を授与することが計画されていた。賞勲局が提出した書類の上では、先に定められた支那事変従軍記章との関係に注意が払われ、両者の区別を明確にする必要から、支那事変従軍記章の受章者へは支那事変記念章を授与しないこととされた。その後、「支那事変」の呼称が「大東亜戦争」へ吸収統合され、1940年4月29日以降の支那事変従軍者の多くの論功行賞が大東亜戦争のそれに一括されると従軍記章や記念章を定めた勅令も改正され、新たに制定された大東亜戦争従軍記章を授与された者には支那事変従軍記章および支那事変記念章を授与しないこととされた。しかし実際には、支那事変記念章の授与に必要な奏請の手続きは行われないうちに敗戦を迎えることとなり、そのまま1946年3月29日、支那事変従軍記章や大東亜戦争従軍記章とともに廃止された。 制定法令 - 支那事変記念章令(昭和17年9月25日勅令第658号、昭和21年3月29日勅令第177号により廃止) 授与対象 - 支那事変の遂行に関して特別の貢献があったが、支那事変従軍記章の授与対象ではない者 意匠章 - 直径3cmの円形・青銅表面 - 桜花を全面にあしらった上部に菊紋を掲げた図 裏面 - 中央に縦書きで「支那事変記念章」と記す 環 - 円形・青銅 綬 - 幅3.6cm・配色は支那事変従軍記章のそれと同じ
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