転向政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 23:54 UTC 版)
思想犯保護観察法成立に伴い、これまで適用されてきた転向判断基準は1936年には厳格化された。森山自身が著書『思想犯保護観察法解説』の中で説明するところでは転向を以下の五段階に分類し、第四段階を一応の目標とすることにされた。 第一段階 マルクス主義の正当性を主張し、又は是認する者 第二段階 マルクス主義に対しては、全く又は一応無批判的にして、今尚お〔ママ〕自由主義、個人主義的態度を否定し得ざる者 第三段階 マルクス主義を批判する程度に至りし者 第四段階 完全に日本精神を理解せりと認めらるるに至りたる者 第五段階 日本精神を体得して、実践躬行(きゅうこう)の域に到達せる者 このように転向者に「日本精神」を要求するようになった。 「日本精神」という言葉は、「日本主義」という言葉とともに1930年代の日本で流行したが、共にどのようなことを意味しているのか曖昧なまま使われていた。森山の解説でも「日本精神」という言葉が転向の判断基準になっているが、司法省・森山共に「日本精神」の定義が明確だったわけではない。このあいまいさは、共産主義以外の思想弾圧につながっていった。 治安維持法は本来共産党対策の法律だったが、転向政策における「転向」の判断基準に、反自由主義・反個人主義や、「日本精神」というあいまいな基準を持ち出したため、共産主義以外の思想も排斥される原因になった。問題は、それだけでは済まされない。思想検事は、思想の排斥・強制を治安維持法違反者だけでなく、一般国民にまで広げようとした。例えば、東京保護観察所長の平田勲は、転向方策は一般社会に対しても「日本精神の実践と宣揚」のために必要である、と述べている。また、同所輔導官だった中村義郎 (宮城控訴院検事局思想検事、後・名古屋地裁検事局思想検事、東京予防拘禁所初代所長) は「今や思想関係者のなしとげた「転向」問題は発展し、更に一転して国民全体の時局的国策的「転向」を要請している」と書いている。平田の発言は支那事変勃発前の1936年、中村の発言は太平洋戦争開始以前の1938年のものである。 転向判断は1938年になると更に基準が厳しくなり、第五段階にならないと「転向」したと判断されなくなった。また、支那事変以降「日本精神」の称揚は決定的になり、政府は転向者を国家総動員体制に組み込み、戦地の宣撫班として宣伝活動に協力させるように強制した。 1941年になると基準は、新治安維持法制定に伴って更に改訂され、「過去の思想を清算し、日常生活裡に臣民道を躬行し居るもの」のみが「転向」したと判断され、それ以外の者は「予防拘禁」に回された。ただ、1941年の改正によって成立した新治安維持法における目玉政策だった予防拘禁制度は実際にはあまり効果を発揮したとは言えず、実際に予防拘禁所内に拘禁された人数は期待されたほどの数にはならなかった。
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