安東昌喬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/20 16:23 UTC 版)
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生誕 | 1880年5月28日 |
死没 | 1956年4月7日(75歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1902年 - 1931年 |
最終階級 | ![]() |
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月28日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
岐阜県士族安東吉右衛門の五男として生れる。札幌中学校を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年12月、海軍少尉任官。日露戦争では第15艇隊付として出征し、日本海海戦では「常磐」分隊長であった。砲術練習所で学んだ後、呉海兵団分隊長、「筑波」分隊長、「卯月」艦長、「日進」砲術長、呉鎮守府参謀などを経て、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を首席で卒業した。
イギリス駐在、「香取」砲術長、軍令部参謀、軍令部第1班第1課部員などを歴任。第一次世界大戦では、第2特務艦隊参謀として地中海に派遣され活動した。さらに海大教官、「霧島」艦長、第2艦隊参謀長などを経て、1924年12月、海軍少将に進級。軍令部参謀(第2班長)を経て、霞ヶ浦海軍航空隊司令となり、将官という地位にありながら操縦技術を習得し陣頭指揮を行った[1]。なお当時の副長は山本五十六である。1928年12月、海軍中将となり、海軍航空本部長などを歴任。1931年12月、予備役に編入された。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]。
栄典
- 位階
- 1902年(明治35年)4月11日 - 正八位[3]
- 1903年(明治36年)12月19日 - 従七位[4]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 正七位[5]
- 1910年(明治43年)3月22日 - 従六位[6]
- 1932年(昭和7年)1月20日 - 正四位[7]
- 勲章
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功五級金鵄勲章・勲五等双光旭日章・明治三十七八年従軍記章[8]
- 1918年(大正7年)3月4日 - 勲三等瑞宝章[9]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[10]
親族
- 娘婿 伍賀守雄(旧姓・前田)海軍中佐
関連項目
脚注
- ^ 『大海軍を想う』p336
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。
- ^ 『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
- ^ 『官報』第1521号「叙任及辞令」1932年1月28日
- ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。p6下段
- ^ 『官報』第1674号「叙任及辞令」1918年3月5日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
- 安東昌喬のページへのリンク