航空業界のキャリア
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「ウォリー・ファンク」の記事における「航空業界のキャリア」の解説
20歳のとき、ファンクはプロの飛行士になった。最初の仕事は、オクラホマ州フォートシル(英語版)での、アメリカ陸軍の下士官兵向けの民間飛行教官だった。ファンクはアメリカ軍基地では初の女性飛行教官だった。1961年秋には、カリフォルニア州ホーソーンの航空会社で、公認の飛行教官、チャーター、チーフパイロットの職を得た。 ファンクは1968年にエアライン・トランスポート・レーティングを取得した。これはアメリカの女性の中では58位だった。ファンクは民間航空会社3社に応募したが、他の女性パイロットと同様、性別を理由に断られた。 1971年、ファンクは連邦航空局(FAA)から飛行検査官の資格を取得した。FAAの一般航空業務検査官アカデミーコースを修了した初の女性である。このコースは、パイロット認証や飛行試験の手順、事故や違反の処理などを含むものである。ファンクはFAAで4年間、FAA初の女性現場審査員として働いた。1973年にはFAAのSWAP(Systems Worthiness Analysis Program)にスペシャリストとして昇格した。この役職に就いた女性はアメリカで初めてだった。1973年11月下旬、ウォーリーは再びFAAアカデミーに入学し、エアタクシー、チャーター、航空レンタルのビジネスに関するコースを受講した。 1974年、ファンクは国家運輸安全委員会(NTSB)に女性初の航空安全調査官として採用された。ファンクは450件の事故を調査した。その中で、小型飛行機の墜落事故では、衝撃で宝石や靴、衣服が剥がれ落ちていることが多いという発見をした。 その間も、ファンクは多くのエアレースに参加した。第25回パウダーパフ・ダービーで8位、パシフィック・エアレースで6位、パーム・トゥ・パインズ・エアレースで8位に入賞した。1975年8月16日、カリフォルニア州サンタモニカからオレゴン州インディペンデンスまでの「パーム・トゥー・パインズ・オール・ウィメン・エアレース」で2位に入賞した。1975年10月4日、赤と白のベランカ・シタブリアに乗り、カリフォルニア州サンディエゴからカリフォルニア州サンタローザまでのパシフィック・エアレースで、80人の参加者を相手に優勝した。 1985年、ファンクは11年間務めた航空安全調査官を退任した。その後、FAAの安全カウンセラーに任命され、パイロットのトレーニングや航空安全に関する講演で有名になった。1986年には、世界航空教育・安全会議で米国側の主要講演者を務めた。1987年には、コロラド州グリーリーにあるエメリー航空カレッジのチーフパイロットに任命された。その後、全米の5つの航空学校でチーフパイロットを務めた。
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