復讐を求めて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/06 01:24 UTC 版)
大戦を経てムッソリーニの政治的な活躍はますます広がり、社会主義と民族主義を源流とする新しい政治運動としてファシズムを掲げ、退役兵を纏め上げて国家ファシスト党を結党して議会に進出した。1922年、ローマ進軍によって国王から組閣を命じられ、1924年に独裁制を公言し、1929年に国家ファシスト党の一党支配を確立してイタリアに全体主義国家を作り上げた。 一方、私生活についてはユダヤ系イタリア人の作家マルゲリータ・サルファッティ(英語版)、ローマ教皇庁高官の子女クラレッタ・ペタッチらと浮名を流しつつも、ムッソリーニが出会った女性の中でも唯一彼を繋ぎ止められたラケーレとの結婚生活は続いていた。頑固な「田舎の百姓女」であるラケーレはムッソリーニも頭が上がらず、エッダを含めて3男2女を儲けている。そして別の意味でもう一つの例外というべき女性がイーダだった。彼女はムッソリーニが何者となろうとも誰と愛し合おうと決して諦めず、わが子ベニート・アルビーノ(イタリア語版)の認知を求め、あらゆる場所や機会で「自分こそがベニートの本当の妻である」と徹底的に訴え続けた。 あらゆるムッソリーニの愛人を押し退け続けた気の強いラケーレもイーダに関しては「あの狂ったオーストリア女」として手を焼いていた。第一次世界大戦時に長女に続いてムッソリーニの「長男」ヴィットーリオを出産し、傷痍軍人として夫が治療を受けていた病院に見舞いに向かった所、「長男」アルビーノの認知を求めるイーダと鉢合わせして掴みかかられたという。イーダは10歳年下のラケーレに向かって「私がムッソリーニの妻よ!私だけが彼の傍にいる権利があるんだから…」と言って病室から追い払おうとし、怒ったラケーレもイーダを張り倒して病室で殴りあいになった。全身包帯姿のムッソリーニは何とかベッドから二人の妻を仲裁しようとしたが止められず、あと少しでラケーレがイーダを絞め殺す所で看護婦達が駆けつけたという。
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