燃える人の舞踏会と余波とは? わかりやすく解説

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燃える人の舞踏会と余波

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:06 UTC 版)

燃える人の舞踏会」の記事における「燃える人の舞踏会と余波」の解説

1393年1月28日、カトリーヌ・ド・ファスタヴェランという名の女官3度目の結婚祝して王妃イザボーサン・ポール館(英語版)で仮装舞踏会開催したタックマン説明によれば当時伝統として未亡人再婚からかい悪ふざけ機会と見なされており、新婚夫婦向けてシャリバリ(英語版)と呼ばれる、「あらゆる種類傍若無人仮装無秩序鳴り響く耳ざわり音楽シンバルの音」を特徴とする風習がしばしば行われていた。この舞踏会にはシャルル6世参加したが、ユゲ・ド・ギゼという貴族タックマンによれば不埒な企み」と残酷な性格によって有名だったという)の発案により、王は身分の高い5人の騎士と共に野蛮人英語版)に仮装してダンス披露することになった。6人の踊り手縫い付けられ野蛮人コスチュームは、松脂染み込ませたリネン亜麻張り付け、「彼らが全身けむくじゃら見えるようにした」ものだった同様の素材でできたマスクで6人の顔は覆い隠され観衆からは彼らが誰であるのかわからなかった。一部年代記踊り手たちが鎖で互いにつながれていたと記録している。ほとんどの観衆は、6人の踊り手シャルル6世紛れていることに気づいていなかった。可燃性の高いコスチューム引火する危険を避けるため、ダンス披露中に松明持った者が入場することは固く禁じられていた。 歴史家ヤン・ヴィーンストラによれば仮装した男たち飛び跳ね回り、「のように」遠ぼえし、卑猥な言葉吐いて、「悪魔のような興奮状態で踊りながら、観衆自分たちが誰であるか言い当ててみるよう請うた。その頃シャルル6世の弟オルレアン公ルイ遅れて会場到着した。フィリップ・ド・バルを連れてやって来たオルレアン公は酒に酔っており、2人は火のついた松明を手に持って仮装した男たちが踊る広間入場したその後何が起こったのかについては諸説があるが、一説によればオルレアン公踊り手1人が誰であるか確かめるため、手に持った松明彼のマスクに近づけたが、その時松明から火花飛び散りその男の脚に火がついたという。事件について17世紀ウィリアム・プリン次のように記述している。「オルレアン公は……従者持っていた松明亜麻に近づけすぎたため、王の廷臣1人に火をつけてしまった。火は廷臣から廷臣へと燃え広がり、彼らは鮮やかな炎に包まれた。」一方で当時年代記のひとつは、オルレアン公松明踊り手1人向けて投じた」と述べている。 野蛮人扮し踊り手1人自分の夫であるのを知っていたイザボーは、炎が彼らに燃え移っていく様子見て気を失った実際には、シャルル6世燃え上がる仲間たちから少し離れた場所に立っており、すぐそばにはベリー公ジャンヌ2世がいた。シャルル6世叔母にあたる当時15歳ジャンヌは、とっさの判断で彼を自分トレーン付きスカートでくるみ、シャルル火の粉から守ったシャルルが他の仲間から離れていた理由については、ジャンヌ踊っているシャルル近づき会話するために彼を仲間から引き離したとする記録がある一方でシャルルが自ら仲間から離れて観衆に近づいていったとする記録もある。フロワサール次のように記述している。「王は前に進んで仲間たちから遠ざかり……自分衣装見せびらかすため婦人たちの方に歩いていった……そして王妃の前を通り過ぎベリー公妃のそばまでやって来たのである。」 広間はすぐ大混乱に陥り、燃え上がる衣装の中で男たち苦しさのあまり金切り声上げた観衆多く火傷負ったが、彼らは悲鳴を上げつつも、燃える男たちを救助しようと試みた。ミシェル・パントワンはその様子について生々しい記録残しており、踊り手のうち「4人は生きたまま焼かれたが、彼らの性器燃えながら床の上落ち……そこから血があふれ出た」と述べている。野蛮人扮した6人のうち、生き残ったのはシャルル6世含めて2人けだった。もう1人生存者であるシュール・ド・ナンテュイエは、ワイン大桶飛び込み火が消えるまでそこにとどまることで一命とりとめたジョワニー伯は現場で死亡したフォワガストン3世英語版)の息子イヴァン・ド・フォワと、ヴァレンティノワ伯の息子エメリー・ド・ポワティエは大火傷負い2日後死亡した仮装提案者であるユゲ・ド・ギゼは彼らよりも1日長く生き延びたが、タックマンによれば「共に踊った仲間たち非難し、その生死に関係なく全員ののしり侮辱しながら死んでいった」とされている。 事件知ったパリ市民国王危険に晒されたことに怒りシャルル6世周囲の者たちを非難した多く市民シャルル叔父たちを廃し、また堕落した廷臣殺害することを求めたため、激し動揺パリ中に広がった叔父たちは市民からの抗議大きな懸念抱き、また1382年起こったマイヨタンの反乱木槌武装したパリ市民徴税反抗した)の再来恐れた。彼らは廷臣説得しシャルル6世とその叔父たちは懺悔のためノートルダム大聖堂参拝することとなったパリの街に出た王族大聖堂まで行列組んで行進し、王だけは馬に乗った叔父たちは謙虚さを示すため徒歩行った一方で火災の原因とされたオルレアン公贖罪のための寄付行いセレスタン修道院礼拝堂建てるための資金拠出した。 フロワサール『年代記』は、「かくして、この宴と婚姻祝い大変な悲しみのうちに終わったが……それはオルレアン公責任であると我々は考えねばならない」と述べており、シャルル6世の弟であるオルレアン公ルイ事件元凶として直接的に非難している。オルレアン公評判はこの事件によって大いに傷ついた。オルレアン公はこの数年前にも、背教者修道士を雇うことで指輪短刀、および剣に悪魔魔力吹き込もうとしたとの疑惑批判受けていた。のちに神学者ジャン・プチ証言行いオルレアン公魔術実践していたと述べ、また舞踏会火災起こしたのは前年の夏にシャルルから襲撃されたことへの報復であって失敗した王殺し試みであった主張した。 「燃える人の舞踏会」は、王が統治不能であることに乗じて宮廷奢侈に流れているとの印象強めたシャルル6世精神異常は時が経つにつれて発作頻度増し1390年代末にはシャルル王として役割単なる形式上のものとなっていた。15世紀初頭には、シャルル無視され、たびたび忘れられる存在となり、王によるリーダーシップ欠落ヴァロワ朝衰退分裂招いた1407年豪胆フィリップ2世息子ジャン1世は、自らの従兄弟でもあるオルレアン公暗殺し彼の悪徳腐敗魔術、そして公私問わぬ幾多悪事」を挙げることでそれを正当化する同時に王弟であるオルレアン公愛人であったとして王妃イザボーをも非難したオルレアン公暗殺された後、フランス諸侯ブルゴーニュ派オルレアン派アルマニャック派)に分裂しフランス数十年にわたって内戦状態置かれることとなった

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