燃える人の舞踏会と余波
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「燃える人の舞踏会」の記事における「燃える人の舞踏会と余波」の解説
1393年1月28日、カトリーヌ・ド・ファスタヴェランという名の女官の3度目の結婚を祝して、王妃イザボーはサン・ポール館(英語版)で仮装舞踏会を開催した。タックマンの説明によれば、当時の伝統として未亡人の再婚はからかいや悪ふざけの機会と見なされており、新婚夫婦に向けてシャリバリ(英語版)と呼ばれる、「あらゆる種類の傍若無人、仮装、無秩序、鳴り響く耳ざわりな音楽とシンバルの音」を特徴とする風習がしばしば行われていた。この舞踏会にはシャルル6世も参加したが、ユゲ・ド・ギゼという貴族(タックマンによれば「不埒な企み」と残酷な性格によって有名だったという)の発案により、王は身分の高い5人の騎士と共に森の野蛮人(英語版)に仮装してダンスを披露することになった。6人の踊り手に縫い付けられた野蛮人のコスチュームは、松脂を染み込ませたリネンに亜麻を張り付け、「彼らが全身けむくじゃらに見えるようにした」ものだった。同様の素材でできたマスクで6人の顔は覆い隠され、観衆からは彼らが誰であるのかわからなかった。一部の年代記は踊り手たちが鎖で互いにつながれていたと記録している。ほとんどの観衆は、6人の踊り手にシャルル6世が紛れていることに気づいていなかった。可燃性の高いコスチュームに引火する危険を避けるため、ダンスの披露中に松明を持った者が入場することは固く禁じられていた。 歴史家ヤン・ヴィーンストラによれば、仮装した男たちは飛び跳ね回り、「狼のように」遠ぼえし、卑猥な言葉を吐いて、「悪魔のような」興奮状態で踊りながら、観衆に自分たちが誰であるか言い当ててみるよう請うた。その頃、シャルル6世の弟オルレアン公ルイが遅れて会場に到着した。フィリップ・ド・バルを連れてやって来たオルレアン公は酒に酔っており、2人は火のついた松明を手に持って、仮装した男たちが踊る広間に入場した。その後に何が起こったのかについては諸説があるが、一説によればオルレアン公は踊り手の1人が誰であるか確かめるため、手に持った松明を彼のマスクに近づけたが、その時松明から火花が飛び散り、その男の脚に火がついたという。事件について、17世紀のウィリアム・プリンは次のように記述している。「オルレアン公は……従者が持っていた松明を亜麻に近づけすぎたため、王の廷臣の1人に火をつけてしまった。火は廷臣から廷臣へと燃え広がり、彼らは鮮やかな炎に包まれた。」一方で、当時の年代記のひとつは、オルレアン公が松明を踊り手の1人に向けて「投じた」と述べている。 野蛮人に扮した踊り手の1人が自分の夫であるのを知っていたイザボーは、炎が彼らに燃え移っていく様子を見て気を失った。実際には、シャルル6世は燃え上がる仲間たちから少し離れた場所に立っており、すぐそばにはベリー公妃ジャンヌ2世がいた。シャルル6世の叔母にあたる当時15歳のジャンヌは、とっさの判断で彼を自分のトレーン付きスカートでくるみ、シャルルを火の粉から守った。シャルルが他の仲間から離れていた理由については、ジャンヌが踊っているシャルルに近づき、会話するために彼を仲間から引き離したとする記録がある一方で、シャルルが自ら仲間から離れて観衆に近づいていったとする記録もある。フロワサールは次のように記述している。「王は前に進んで、仲間たちから遠ざかり……自分の衣装を見せびらかすため婦人たちの方に歩いていった……そして王妃の前を通り過ぎ、ベリー公妃のそばまでやって来たのである。」 広間はすぐ大混乱に陥り、燃え上がる衣装の中で男たちは苦しさのあまり金切り声を上げた。観衆の多くも火傷を負ったが、彼らは悲鳴を上げつつも、燃える男たちを救助しようと試みた。ミシェル・パントワンはその様子について生々しい記録を残しており、踊り手のうち「4人は生きたまま焼かれたが、彼らの性器は燃えながら床の上に落ち……そこから血があふれ出た」と述べている。野蛮人に扮した6人のうち、生き残ったのはシャルル6世を含めて2人だけだった。もう1人の生存者であるシュール・ド・ナンテュイエは、ワインの大桶に飛び込み、火が消えるまでそこにとどまることで一命をとりとめた。ジョワニー伯は現場で死亡した。フォワ伯ガストン3世(英語版)の息子イヴァン・ド・フォワと、ヴァレンティノワ伯の息子エメリー・ド・ポワティエは大火傷を負い、2日後に死亡した。仮装の提案者であるユゲ・ド・ギゼは彼らよりも1日長く生き延びたが、タックマンによれば「共に踊った仲間たちを非難し、その生死に関係なく全員をののしり、侮辱しながら死んでいった」とされている。 事件を知ったパリ市民は国王が危険に晒されたことに怒り、シャルル6世の周囲の者たちを非難した。多くの市民がシャルルの叔父たちを廃し、また堕落した廷臣を殺害することを求めたため、激しい動揺がパリ中に広がった。叔父たちは市民からの抗議に大きな懸念を抱き、また1382年に起こったマイヨタンの反乱(木槌で武装したパリ市民が徴税に反抗した)の再来を恐れた。彼らは廷臣を説得し、シャルル6世とその叔父たちは懺悔のためノートルダム大聖堂に参拝することとなった。パリの街に出た王族は大聖堂まで行列を組んで行進し、王だけは馬に乗ったが叔父たちは謙虚さを示すため徒歩で行った。一方で、火災の原因とされたオルレアン公は贖罪のための寄付を行い、セレスタン修道院に礼拝堂を建てるための資金を拠出した。 フロワサールの『年代記』は、「かくして、この宴と婚姻の祝いは大変な悲しみのうちに終わったが……それはオルレアン公の責任であると我々は考えねばならない」と述べており、シャルル6世の弟であるオルレアン公ルイを事件の元凶として直接的に非難している。オルレアン公の評判はこの事件によって大いに傷ついた。オルレアン公はこの数年前にも、背教者の修道士を雇うことで指輪と短刀、および剣に悪魔の魔力を吹き込もうとしたとの疑惑で批判を受けていた。のちに神学者ジャン・プチは証言を行い、オルレアン公が魔術を実践していたと述べ、また舞踏会で火災を起こしたのは前年の夏にシャルルから襲撃されたことへの報復であって、失敗した王殺しの試みであったと主張した。 「燃える人の舞踏会」は、王が統治不能であることに乗じて宮廷が奢侈に流れているとの印象を強めた。シャルル6世の精神異常は時が経つにつれて発作の頻度を増し、1390年代末にはシャルルの王としての役割は単なる形式上のものとなっていた。15世紀初頭には、シャルルは無視され、たびたび忘れられる存在となり、王によるリーダーシップの欠落はヴァロワ朝の衰退と分裂を招いた。1407年、豪胆公フィリップ2世の息子ジャン1世は、自らの従兄弟でもあるオルレアン公を暗殺し、彼の「悪徳、腐敗、魔術、そして公私を問わぬ幾多の悪事」を挙げることでそれを正当化すると同時に、王弟であるオルレアン公の愛人であったとして王妃イザボーをも非難した。オルレアン公が暗殺された後、フランスの諸侯はブルゴーニュ派とオルレアン派(アルマニャック派)に分裂し、フランスは数十年にわたって内戦状態に置かれることとなった。
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