ヘロドトス ヘロドトスの概要

ヘロドトス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 07:52 UTC 版)

ヘロドトスの胸像

彼が記した『歴史』は、完本として現存している古典古代の歴史書の中では最古のものであり、ギリシアのみならずバビロニアエジプトアナトリアクリミアペルシアなどの古代史研究における基本史料の1つである。

生没年は不詳であり、生年は大雑把に前490年から前480年までの間とするのが定説である[1]。前484年説がしばしば採用されるが、明確な根拠を伴ったものではない[1][2]。没年は前430年以降であることは明白であるが、これも正確には不明である[3]。概ね前490年-前480年の間に生まれ、前430年から前420年の間に、60歳前後で死亡したとするのが一般的である[3]

生涯

ヘロドトスの知名度・重要性に反して、彼自身の人生について知られていることは少ない。彼の生涯についての情報源は以下のようなものに限られる[4][5]

スーダによればヘロドトスは小アジア南部のカリア地方にある都市ハリカルナッソス(現:トルコボドルム)の出身であり、父親の名はリュクセス、母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという[5]。兄弟にテオドロスという人物がおり、従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人パニュアッシスがいた[5]。ハリカルナッソスは前900年頃にペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の都市トロイゼンから移民したドーリス系ギリシア人の植民市であった[6][2]。しかし前5世紀にはハリカルナッソスの文化はイオニア化しており、ヘロドトス自身も古代ギリシア語イオニア方言を話したと推定されている[2][6][注釈 1]。また、ギリシア人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、ヘロドトスの家も同様であった。ヘロドトスの父リュクセス、従兄弟(または叔父)のパニュアッシスはカリア系の名前であるが[2][6]、母ドリュオ(ロイオ)はギリシア語の名前である[6]。ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、ギリシア語による命名であることは明白である[6]。ヘロドトスの名前はギリシア語で「ヘラ女神の贈り物」と言う意味である。ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す[2]

ヘロドトスが故郷にいたころ、ハリカルナッソスは女傑として名高いアルテミシア1世の統治下にあった[1]。ヘロドトスが彼女を深く尊敬していたことは『歴史』の描写から明確に読み取ることができる[1]。その後アルテミシア1世の息子、または孫で僭主となったリュグダミスがハリカルナッソスを支配するようになると、ヘロドトスとパニュアッシスはリュグダミスに反対する政争に加わった。しかし、パニュアッシスは殺害され、ヘロドトスも故国を追われてサモスでの亡命生活に入った[1]。リュグダミスに対する反抗はその後も相次ぎ、恐らく前450年代初め頃に彼の政権は打倒された[1]。この過程にもヘロドトスは関わったとする見解もある[1]

ヘロドトスはサモスにある程度の期間滞在した後、アテナイに行き、ついでイタリアに建設された新植民市トゥリオイに前444年[8]、または前443年に移住した[9][4]。この都市はアテナイの支配者ペリクレスがギリシア各地から移民を集めて建設した都市であったがヘロドトスが参加した経緯は不明である[9][4]

ヘロドトスはサモスを去って以降、その人生のうちに少なくともアテナイキュレネクリミアウクライナ南部、フェニキアエジプトバビロニアなどを旅したはずであるが[10][11]、その具体的な年代をどのように想定するべきであるか明確ではない。ただしエジプトとバビロニアを訪れたのは人生の晩年、少なくともトゥリオイの市民であった頃であろう[11]

彼はこれらの旅で得た知見をまとめ『歴史』と呼ばれる著作を残した。この著作は失われることなく伝存する古典古代の歴史書の中では最古のものである[4]。この中にペロポネソス戦争に触れた記述を残していることから、ペロポネソス戦争勃発の頃(前431年)にはまだ生存していたと考えられる[12]。最後はトゥリオイで死亡したともアテナイに戻っていたとも言われるが、いずれも明確な証拠はない[9][11]

著作

オクシュリンコス・パピルス 2099から発見された『歴史』8巻断片。2世紀初頭に記されたものとされる。

ヘロドトスは現在では日本語で『歴史』(: The Histories)と言うタイトルで知られる著作を残した。これは現代風に解釈するならば、全ギリシアを巻き込むことになったペルシア戦争を主題にした1種の同時代史であると言える[13]。この作品冒頭でヘロドトスは以下のように著者名と執筆の目的・方法を書いている。

これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探求(Ἱστορίαι ヒストリエー)であって、人間の諸所の功業が時とともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、とくに彼らがいかなる原因から戦い合う事になったのかが、やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。
ヘロドトス、『歴史』巻1序文、桜井訳[14]

序文に記された戦いが全ギリシアを巻き込んだペルシア戦争であり、異邦人(バルバロイ)がペルシア人のことであるのは当時を生きた人であるならば誤解の余地のないところであった[15]

この文章はまた、著述の方法として調査・探求(Ἱστορίαιhistoria)というギリシア語の単語を用いた現存最古の用例である[14]。最初に著者名を筆記し、執筆にあたっての主体性と責任の所在を明らかにするこの姿勢は、ミレトスのヘカタイオスを意識したものであったと見られる[12][14]。ヘカタイオスはヘロドトスに先行して各ポリスの伝承などを散文で綴っていたロゴグラポイと呼ばれる文筆家の1人であった。このような文章は前4世紀には10例ほどが知られており、ヘロドトスのそれはこうしたものの中でも最古の部類に属する[12]

ヘロドトスの『歴史』は全9巻からなるが、この9巻分類はヘロドトス自身によるものではなく、アレクサンドリアの学者によるものである[11]。現在に残る『歴史』の全体構成は当初からヘロドトスが構想していたものではなく、後から彼が追補した際に整えられたものであると推定される[16]。少なくとも最後の3巻部分は最初の6巻部分よりも先に作られていたことを示す各種の内部証拠が存在する[16]

執筆姿勢

ヘロドトスが調査・探求して記した『歴史』は当事者や関係者がまだ存命中の出来事についての記録であった[13]。そしてそのための探求の方法は現代の歴史研究とは異なり、史料を確認して情報を収集するよりも、現地を回り関係者に聴取し、また自ら経験することが主となった[13]。ヘロドトスは自らの目で確認することに努めたが、不足する情報は伝聞や証言によって補った[17]。その中にはヘロドトス自身が疑わしいと考える情報も多々あったが、彼は信憑性の程度に拘らずそれを『歴史』に掲載している。このような執筆姿勢は以下のような記述からも明らかである。

この王についての(エジプトの)祭司の話はなお続き、右の事件の後ランプシニトスは、ギリシア人がハデス(冥界)の在るところと考えている地下へ生きながら下ったということで、ここでデメテルと骰子を争い、互いに勝敗のあった後、女神から黄金の手巾を土産に貰い、再び地上へ帰ったという。このランプシニトスの下界降りが起縁となって、彼が地上へ帰ってからエジプトでは祭を催すようになったという。(中略)このようなエジプト人の話は、そのようなことが信じられる人はそのまま受け入れればよかろう。本書を通じて私のとっている建前は、それぞれの人の語るところを私の聞いたままに記すことにあるのである。
ヘロドトス、『歴史』巻2§122-123、松平訳[18]

一方でこの態度はヘロドトスの著作中において徹底はしておらず、採録の基準は曖昧であったし、神々と人間との関わりのような問題についても彼がはっきりと首尾一貫した哲学的姿勢を持っていたわけではない[19]。ヘロドトスは英雄時代の歴史に立ち入ることはなく、しばしば触れる神話的伝承についても懐疑的な姿勢を取り、神々がかつて人間とわったという説話や神の出現と言った出来事を事実として承認することはしなかった。この姿勢はしかし神話を明確に拒絶するほど徹底したものでもなかった[19]。ヘロドトスはまた、こうした神話的な説話に対して時折風刺を加えてもいる[19]

テッサリアの住民自身のいうところでは、ペネイオスの流れているかの峡谷は、神ポセイドンの作られたものであるというが、もっともな言い分である。というのは地震を起こすのがポセイドンで、地震による亀裂をこの神の仕業であると信ずる者ならば、かの峡谷を見れば当然ポセイドンが作られたものであるというはずで、私の見るところ、かの山間の亀裂は地震の結果生じた物に相違ないのである。
ヘロドトス、『歴史』巻7§129、松平訳[20]

また、ローマ時代の歴史家プルタルコスエウセビオスによれば、ヘロドトスは『歴史』の内容を各地で口演していたという。このヘロドトスが聴衆に向けて語り聞かせていたという情報は事実であると考えられ、このことが聴衆を楽しませるための様々な説話・余談の挿入、本筋からの脱線という『歴史』の特徴を形作ったとも考えられる[21]


注釈

  1. ^ ハリカルナッソスはイオニアに属する都市ではないが、ヘロドトスはしばしばイオニア人であると見られがちである。実際ヘロドトスの思考や知的背景がイオニアに多くを負っているのは間違いないにもかかわらず、彼の姿勢は極めて親アテナイ的であり、イオニアに対する非難を躊躇していない。『歴史』の叙述におけるヘロドトスのイオニア人に対する態度はある種侮蔑的であり、「イオニア人という名前は偉大な名声を持つ名前ではない」とも書いている。J.B.ベリーは「かれがイオニア作家として叙述したといわれたならば、かれは大いに憤慨したであろう。かれは、イオニアとイオニア的な関心から離れようと非常に苦心した。」と述べる[7]
  2. ^ ヘロドトスが伝えるアラビア人の話によれば、ライオンの雌は一生の間に一頭の子供しか生まない。それはライオンの赤子は胎内で動き始めるようになると母の子宮を爪でかきむしるからで、出産が近づく頃には子宮で無事な部分は全く残らず、出産とともに子宮も体外に排出されるためだという[48]
  3. ^ ヘロドトスはクセルクセスの率いた軍隊の総勢が「百七十万人以上であることは確かである」としている[59]
  4. ^ 聴衆の存在を前提に、様々な挿話によってその関心を惹きつけるホメロス以来の伝統的な事物の語りの伝統。

出典

  1. ^ a b c d e f g 松平 解説, p. 373
  2. ^ a b c d e 桜井 2006, p. 12
  3. ^ a b 松平 解説, p. 375
  4. ^ a b c d e ベリー 1966, p. 38
  5. ^ a b c 松平 解説, p. 371
  6. ^ a b c d e 松平 解説, p. 372
  7. ^ ベリー 1966, pp. 60-61
  8. ^ 松平 解説, p. 374
  9. ^ a b c 桜井 2006, p. 16
  10. ^ 大戸 2012, p. 51
  11. ^ a b c d ベリー 1966, p. 39
  12. ^ a b c 大戸 2012, p. 53
  13. ^ a b c 大戸 2012, p. 60
  14. ^ a b c 桜井 2006, p. 20
  15. ^ 大戸 2012, p. 55
  16. ^ a b ベリー 1966, p. 40
  17. ^ 大戸 2012, p. 61
  18. ^ 『歴史』巻2 §122-123
  19. ^ a b c ベリー 1966, pp. 45-51
  20. ^ 『歴史』巻7 §129
  21. ^ 大戸 2012, pp. 74-77
  22. ^ 桜井 2006, p. 7
  23. ^ a b c d e 大戸 2012, p. 57
  24. ^ 桜井 2006, pp. 25-26
  25. ^ a b c 大戸 2012, p. 58
  26. ^ a b c 桜井 2006, pp. 26-27
  27. ^ 大戸 2012, p. 47
  28. ^ 大戸 2012, pp. 58-59
  29. ^ 桜井 2006, p. 53
  30. ^ 桜井 2006, p. 57
  31. ^ a b 高橋 2014, p. 26
  32. ^ 高橋 2014, p. 27
  33. ^ a b c 桜井 2006, p. 58
  34. ^ a b 大戸 2012, pp, 28-29
  35. ^ 大戸 2012, p. 31
  36. ^ 大戸 2012, p. 32
  37. ^ a b 大戸 2012, p. 42
  38. ^ 大戸 2012, p. 43
  39. ^ 大戸 2012, p. 44
  40. ^ 桜井 2006, p. 59
  41. ^ a b c 桜井 2006, p. 62
  42. ^ a b 桜井 2006, p. 61
  43. ^ 桜井 2006, p. 64
  44. ^ 桜井 2006, p. 68
  45. ^ a b 大戸 2012, p. 71
  46. ^ 桜井 2006, p. 41
  47. ^ 大戸 2012, p. 72
  48. ^ 『歴史』, 巻3§108
  49. ^ a b c 桜井 2006, p. 42
  50. ^ 桜井 2006, p. 109
  51. ^ 『歴史』(トゥキュディデス), 巻1§20-23
  52. ^ a b c 桜井 2006, pp. 28-31
  53. ^ 藤縄訳注, pp. 22-24
  54. ^ 大戸 2012, p. 94
  55. ^ a b 大戸 2012, p. 93
  56. ^ 大戸 2012, p. 98
  57. ^ a b 桜井 2006, p. 43
  58. ^ 大戸 2012, p. 73
  59. ^ 『歴史』, 巻7§60
  60. ^ ベリー 1966, p. 69
  61. ^ 桜井 2006, p. 45
  62. ^ a b c 桜井 2006, p. 50
  63. ^ 桜井 2006, p. 51
  64. ^ 大戸 2012, p. 86
  65. ^ 大戸 2012, pp. 86-87


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