碑文の解釈
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高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながらも、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」と位置づけている。また高句麗が寐錦以下の官に衣服を下賜したことや、新羅領内で300人を徴発して高句麗軍官の指揮下に置いたことも記され、朝鮮半島内に勢力を拡大した長寿王の時代、高句麗が新羅を従属させていたことを示す資料である。 414年に建てられた広開土王碑は純粋な中国式漢文で書かれているのに対し、中原高句麗碑は征服地の新羅の民に読ませるために新羅語の制約を受けた表記法になっていると説明される。6世紀の新羅による迎日冷水碑や蔚珍鳳坪碑が同様に新羅語的な漢文になっていることとあわせ、新羅では漢字を受容し使用していたが、漢文表記については自国語に適した表記に改めて用いていたものと推察されている。
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碑文の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:35 UTC 版)
発見地付近の「珍而麻村」における財物の所有権をめぐっての紛争を斯羅(新羅)の中央官僚7人が調停したことと、その調停の後に牛を犠牲にして天に報告する儀式を行ったことを記している。ここに見られる「至都盧葛文王」が智証麻立干であり、「癸未」年が王の4年(503年)にあたることが確実視されている。『三国史記』新羅本紀・智証麻立干4年10月条にあるように、智証麻立干の時代に国号と王号を定めて新羅王としたとされているが、固有王号の「麻立干」から一気に「王」へと移行したわけではなく、その間で「葛文王」という号が用いられていたことが伺える。 碑文の表現は純粋の中国漢文とは言えず、蔚珍鳳坪碑と同じように新羅語固有の文法に制約されている表記が認められるという。
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碑文の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 01:41 UTC 版)
摩滅の状況が激しくて文字の比定についても確定し切れておらず、また、文章が純粋な中国漢文とは言えず、新羅の固有の文法に制約されたと見られる表記もあるとされる。そのため、細部にわたっての碑文の解釈は未だ一致した見解が得られていないが、「甲辰年正月十五日」との書き出しによる、元は高句麗領であった領域の民への教書的な文言であるところから、法興王11年(524年)の建立であることが確実視されている。6世紀初頭の新羅が高句麗からの支配を跳ね返して北進し、新たに得た領域を自らの勢力下に収めるに当たって、王の視察のあったことや従わないものへの刑罰が記されており、法制の内容を知る上での貴重な資料となっている。 法興王自身は「寐錦王」として現れており、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとも考えられている。
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