碑文の誤伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/13 13:40 UTC 版)
「小倉碑文」は江戸時代より諸書にその全文が掲載され、あるいは部分引用が為されているが、古い資料に見られる重要な誤りがそのまま孫引きされていることも多く見られるので注意を要する。 特に『二天記』記載文には重要な誤りが二箇所ある。 武蔵の戒名(二天記)兵法天下無雙 播州赤松末流新免武藏藤原玄信二天道樂居士碑 (碑文)兵法天下無雙 播刕赤松末流新免武藏玄信二天居士碑 春山撰文(二天記 碑文の末尾)右泰勝寺住持春山襌衲書之 (碑文) なし 最初に「小倉碑文」を写して全文公開したのはおそらく『本朝武芸小伝』(1716年)であろう。しかし確認するとそこには春山撰文の文字はない。その次に古いのが『武州伝来記』(1727年)でこれにもない。春山撰文説の源は肥後の『武公伝』(1755年)であった。『二天記』がそれを原典として引き継いだので、全国に広まったようである。『二天記』では武蔵の葬儀で引導を渡したのも春山となっているが、武蔵の葬儀を差配した熊本藩家老長岡監物と宮本伊織の往復書簡によれば、葬儀を取り仕切ったのは泰勝院開山大淵和尚である。泰勝寺2世の春山と武蔵の交流を示す史料は無く、宮本家にも春山に撰文を依頼した伝承は無い。 『二天記』を写したものにはもう一つ特徴的な誤りも写しているのですぐに判定できる。それは碑文冒頭大文字入刻の戒名が「新免武蔵藤原玄信二天道樂居士」となっている。原文は「玄信二天居士」で「藤原」も「道樂」もないのである。「二天道樂」の居士名は福田正秀の研究で武蔵が事実使用していた事がわかっている。「二天」は肥後入国時から使用していたのが自筆書状で証明されるので、その以前小倉時代から使用していたと考えられるが、「二天道樂」は肥後熊本のみで使用したものである。戦災で焼けて今は写真でしか見ることが出来ないが、熊本の泰巌寺旧蔵(元は鍛治屋町の養寿院蔵)の武蔵の位牌は「新免武藏藤原玄信二天道樂先生之神儀」となっている。この事を紹介しているのが『武公伝』である。このことから、この位牌を見た豊田正剛が碑文の写しに書き加えたものと判断される。
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