碑文全文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/13 13:40 UTC 版)
(読み下し) 天仰実相円満 兵法逝去不絶 時に、承応三年四月十九日、孝子某、謹で建焉。 正保二年乙酉暦五月十九日、肥後国熊本に於て卒す。 兵法天下無双 播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士の碑 機に臨み変に応ずるは、良将の達道なり。武を講じ、兵を習ふは軍旅の用事なり。心を文武の門に遊ばせ、手を兵術の場に舞はせて、名誉を逞しくする人は、其れ誰ぞや。播州の英産、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信、二天と号す。 想ふに夫れ、天資曠達、細行に拘らず、蓋し斯れ其の人か。二刀兵法の元祖と為るなり。 父、新免無二と号し、十手の家を為す。武蔵、家業を受け、朝讃暮研す。思惟考索して、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきを灼知す。然りと雖も、十手は常用の器に非ず、二刀は是、腰間の具なり。乃ち二刀を以て十手の理と為せば、其の徳違ふこと無し。故に十手を改めて二刀の家を為す。 誠に武剣の精選なり。或ひは真剣を飛ばし、或ひは木戟を投げ、北る者、走る者、逃避する能はず。其の勢、恰も強弩を発するが如し。百発百中、養由も斯れに踰ゆる無し。 夫れ惟、兵術を手に得、勇功を身に彰す。方に年十三にして始む。播州に到り、新当流、有馬喜兵衛なる者と進んで雌雄を決し、忽ち勝利を得たり。 十六歳春、但馬国に至る。大力量の兵術の人、秋山と名のる者有り。又、反掌の間に勝負を決し、其の人を打ち殺す。芳声街に満つ。 後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り。雌雄を決せんことを請ふ。彼の家の嗣、清十郎、洛外蓮台野に於いて竜虎の威を争ひ、勝敗を決すと雖も、木刃の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。予て、一撃の諾有るに依り、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乗せ去り、薬治、温湯し、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ。 然る後、吉岡伝七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。伝七、五尺余の木刃を袖にして来る。武蔵、其の機に臨んで彼の木刃を奪ひ、之を撃ちて地に伏す。立ち所に吉岡死す。 門生、寃を含み、密かに語りて云く、兵術の妙を以ては、敵対すべき所に非ずと。籌を帷幄に運らして、吉岡亦七郎、事を兵術に寄せ、洛外下り松辺に会す。彼の門生数百人、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武蔵、平日、先を知るの才有り。非義の働きを察して、窃かに吾が門生に謂て云く、汝等、傍人と為りて速やかに退け。縦ひ、怨敵、群を成し、隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐ること之有るや。衆の敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて帰る。洛陽の人皆、之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人を敵する者は、実に兵家の妙法なり。 是より先、吉岡は代々公方の師範を為し、扶桑第一の兵術者の号有り。霊陽院義昭公の時に当たり、新免無二を召して、吉岡と兵術をして勝負を決せしむ。三度を以て限り、吉岡、一度利を得、新免、両度勝ちを決す。是に於いて新免無二をして日下無双兵法術者の号を賜ふ。故に武蔵、洛陽に到り、吉岡と数度の勝負を決し、遂に吉岡兵法の家泯び絶ゆ。 爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。 凡そ、十三より壮年迄、兵術勝負六十余場、一つも勝たざる無し。且つ定めて云く、敵の眉八字の間を打たざれば勝ちを取らずと。毎に其の的を違はず。古より兵術の雌雄を決する人、其の数を算するに幾千万かを知らず。然りと雖も、夷洛に於いて英雄豪傑の前に向かひ人を打ち殺す。今古其の名を知らず。武蔵一人に属するのみ。兵術の威名、四夷に遍き、其の誉れや、古老の口に絶えず、今人の肝に銘じる所なり。誠に奇なるかな、妙なるかな。力量旱雄、尤も他に異なれり。 武蔵、常に言う、兵術を手に熟し、心に得て、一毫も私無ければ、則ち、戦場に於て恐れる事もなく、大軍を領する事も、又、国を治る事も、豈に難からんやと。 豊臣太閤の嬖臣、石田治部少輔謀叛の時、或ひは、摂州大阪に於いて、秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名は縦に海の口、渓の舌に有り、寧ろ説き盡し、簡略に之を記さず。 旃加、礼、楽、射、御、書、数の文に通ぜざる無し。況や小芸巧業をや。殆ど為して為さざる無き者か。蓋し大丈夫の一体なり。 肥之後州に於いて卒する時、自ら、天を仰げば実相円満之兵法逝去して絶えず、の字を書き、以て言う、遺像と為せと。故に孝子、碑を立て、以て不朽に伝へ、後人に見せしむ。嗚呼、偉なるかな。 — 福田正秀『宮本武蔵研究論文集』「資料編」pp.206-207より、読み下しのみ引用
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