読み下し
漢文訓読
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漢文訓読(かんぶんくんどく)とは、漢文の語順構成を維持しながら、訓点を付して日本語の文体に置き換えて読解すること。
- ^ 『大辞泉』小学館。
- ^ 寺島良安『倭漢三才圖會』(復刻版)吉川弘文館(原著1906年11月21日)。
- ^ 渡部温 編『標註訂正・康煕字典』講談社(原著1991年)。
- ^ “『官報』第8630号、明治45年3月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)”. 2024年1月19日閲覧。
- ^ 佐川繭子「「漢文教授ニ関スル調査報告」の基礎的研究」, 二松学舎大学21世紀COEプログラム「日本漢文学研究の世界的拠点の構築」 (14), pp.45-62, 2019年3月
- ^ 金 文京『漢文と東アジア—訓読の文化圏』岩波書店(原著2010年8月20日)。ISBN 9784004312628。
- ^ Tsukimoto, Masayuki (2000年10月31日). “大東急記念文庫蔵続華厳経略疏刊定記巻第五の訓点について”. 鎌倉時代語研究. 2019年12月14日閲覧。
- ^ 月本雅幸 (2010-08-20). “大東急記念文庫蔵続華厳経略疏刊定記巻第五の訓点について”. 鎌倉時代語研究 2019年12月14日閲覧。.
- ^ 平安時代の式部省大学寮、博士職が用いたもの
- ^ 日本の漢字1600年の歴史. ペレ出版. pp. 141-142. ISBN 9784860643003
- ^ レ点が字の左上に書かれるのだから、右掲例のようにレ点とその他の返り点とが重なる場合、なぜレ点が下になるかがわかる。例では「矛」の左上にあるレ点と「與」の左下の一点とが重なっている。レ点が字の左下に書かれるなどとする説明が『大辞泉』『大辞林』などの「返り点」の項目でなされるが、誤りである。また、レ点とその他の返り点が重なっている場合、その点が「一レ点」「上レ点」などと一つの返り点であるかのように説明されることもあるが、これも誤りである。
- ^ 明治45年(1912年)3月の「漢文教授に関する文部省調査報告」より転載
- ^ ただし19世紀の一部の図書では行末に返り点があるという。
- ^ 沢田総清『漢文教授法概説』芳文堂、1937年、漢文訓読法 -131頁。
- ^ 「吾日三省二吾身一」と訓点を施し「吾日に三たび吾が身を省みる」と読まれることもある。先ほどとは順序が異なっていることに注意。
- ^ 古田島 2012 157頁
- ^ a b 古田島 2012 158-160頁
- ^ 古田島 2012 161頁
- ^ “Kanbun | The Unicode Standard” (PDF). 2017年7月30日閲覧。
- ^ リンク先のウィキソースではテクストが異なるため、「盾」を「楯」につくる。
- ^ ここで「與」(新:与、拼音: )は連詞として「Aト與(と)レB」の形で使われる場合、「與」字がひらがなになおされて「AとBと」と書き下される。
- ^ 「者」を「もの」と読む訓読ではわかりにくいが、「者」は短語をつくる結構助詞であってこれ自体が名詞ではない。「鬻~矛者」でひとつの名詞性短語である。また、訓読では謂詞「有」の主語が「鬻~矛者」であるかのように誤解されるかもしれないが、実際には主語は「楚人」であって「鬻~矛者」は賓語である。したがって句式は第一句式SVではなく第二句式SVOである。このように訓読が白文の構造を保たない場合がある。
- ^ 中国語には時制がないので、訓読にはそれが現れないが、訳するときに文脈から補うことになる。ただ、例句の場合、原文ではこのあとに「譽(ほ)メテレ之(これ)ヲ曰(い)ハク~」と句が途切れないから、気にしなくて良い。
- ^ [1]
- ^ 古田島洋介『これならわかる返り点』
- ^ 石塚、2001,小助川,2012
- ^ 明治時代には、漢文のように英語を訓読していたというのは本当ですか
- ^ [2]
- ^ a b c 土田 2014, p. 6.
- ^ a b c d 土田 2014, p. 7.
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 08:45 UTC 版)
上野国群馬郡下賛郷(しもさぬのさと)高田里(たかだのこざと)の三家子□が、七世父母と現在父母の為に、現在侍る家刀自の他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、又児の加那刀自(かなとじ)、孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、次に蹄刀自(ひづめとじ)、次に若蹄刀自(わかひづめとじ)の合せて六口、又知識を結びし所の人、三家毛人(みやけのえみし)、次に知万呂、鍛師(かぬち)の礒部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の合せて三口、是の如く知識を結び而して天地に誓願し仕え奉る石文。神亀三年丙寅二月二十九日。
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辛巳歳集月三日に記す。佐野三家(さののみやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫の黒売刀自(くろめとじ)、此れ新川臣(にいかわのおみ)の児の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫の大児臣(おおごのおみ)に娶(とつ)ぎて生める児の長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定むる文也。放光寺僧。
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