碑文大意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 01:51 UTC 版)
「山北今帰仁城監守来歴碑記」の記事における「碑文大意」の解説
むかし琉球はいくつもの地域に分裂して治められていたが、最後は北山・中山・南山の三山が鼎立するようになった。そのとき佐敷按司であった尚巴志が立ち、三山を統一したが、北山は険阻でまた人も勇猛、中山からも遠くあり教化するのにも難しい。変乱の生ずる恐れもあるため尚巴志王は自らの次子である尚忠を監守として派遣した。そのご即位した尚徳王は酒に耽り色を好み、遂に臣民に叛かれ、尚円が推戴され王となるが、尚円王も大臣を派遣し監守せしめた。 そして弘治年間、尚真王は第三子である尚韶威を監守として派遣した。これが吾が元祖であり、以来われわれ一族が代々監守職をつとめることとなった。康熙4年になって、七世の向従憲が、命により首里へ居を移すこととなったが、そのごもわが家が今帰仁城と旧跡の典礼を司ってきた。しかし乾隆7年に王府が城域を郡民に授け、典礼も行わせようとした。そこでわたくし尚宣謨が往事の事情等を奏上したところ、これまで通りわが家が城地を管理し典礼を司ることがゆるされた。わが家は元祖の尚韶威から北山を鎮守している、この徳と功はわが家の子々孫々におよぶものである。わたくし尚宣謨は来歴をここに記し不朽のものとする。 皇清乾隆14年己巳秋八月穀旦十世孫 尚宣謨・今帰仁王子朝忠 謹立。
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