『武州伝来記』
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その「追加」の部に、次のように記されている。 一、二天流兵法二祖寺尾孫之允信正は、細川家の家臣たりといへども、その身は一生仕官せず、熊本の城下近邑に引篭り耕して生涯を送り、福力あつて米銭に乏しからずと云り。武州公数百人の門人より一人撰び出し伝授ありし人なり。法名夢世と号す。小兵ながら力量ありしといへり。寺尾の本家、今尚細川の家臣たり。五尺杖の仕道、信正鍛錬なり。武州公は片手にて自由せられしゆへ別段にわざはなし、信正に至り、片手にては振りがたきゆへ、仕道を付けられしと也。隅に蟠(わだかま)りたる敵、又は取篭り者等に別して利あり。これ皆中段すみのかねより事発れり。 これは寺尾孫之允に7年随仕して二天流の相伝を受けた柴任三左衛門の伝えた話である(同書)。この人物については細川家にさえ伝承がほとんどなく、その風貌と力量、生活の様子を知る唯一ともいえる貴重な史料である。誇張粉飾の様子もなく、その伝承経路から信憑性は極めて高いものと考えられ、寺尾孫之允論の基本史料となるものである。 隠棲地 《一生仕官せず、熊本の城下近邑に引篭り耕して生涯を送った》という所は、平成5年(1993年)の夏、熊本の作家長井魁一郎によって発見された墓のあった宇土市松山の五色山山麓の村と考えられる。 墓 《表面》 寛文十二壬子年 南無阿弥陀仏 釋夢世滅度位 九月十九日 《裏面》 辭世歌 露とをきつ由ときえにしわか身かな 何盤乃事は夢の又由免 寺尾氏源勝信六十歳薨 「夢世」は孫之允の号であり、『五輪書』を弟子の山本源介等に相伝の奥書に、「寺尾夢世勝延(花押)」と著名している。 墓の発見により孫之允は寛文12年(1672年)に60歳まで生きたということがわかった。武蔵死後27年後である。逆算すると生まれたのは慶長18年(1613年)である。武蔵が晩年に肥後に来た寛永17年(1640年)は28歳。それから正保2年(1645年)、33歳まで5年間、武蔵について兵法を学んだということになる。 風貌 《小兵ながら力量ありしといへり》これも孫之允の風貌を想像させるおそらく唯一の史料である。孫之允は小柄な体躯であったらしい。武蔵の身の丈6尺の巨体と相反する者が一流を継承したということになる。 出自と家族 《寺尾の本家、今尚細川の家臣たり》 子孫に伝わる『寺尾家系』によれば、先祖は新田氏であり、寺尾の本家は父左助勝正が慶長7年豊前小倉で細川忠興に召抱えられ、忠利代1050石、鉄砲50挺頭の重臣である。本家は兄九郎左衛門(喜内)が継ぎ、孫之允は二男。野田一溪の『先師道統次第系図』(1782年)によれば「耳ノタリ少シカゲタルユへ不具トシテ浪人セリ」とあり、耳が少し不自由だったので、藩には出仕せず浪人(牢人)だったとしている。孫之允が浪人であったことは「寺尾家系」にも書かれている。細川家譜『綿考輯録』には兄喜内、弟求馬とともに島原の乱に出陣した記録がある。肥後における武蔵伝記『武公伝』では「夢世ハ一代ニテ兵術子孫に不傳」とある。兵法を自分の子孫には伝えなかったが、「寺尾家系」(山田紘靖蔵)によれば一男一女あり。女子は横井某へ嫁し、男子は早世す、松岡玄寿の二男を養子と為すが、牢人断絶。となっている。 弟の寺尾求馬助信行は当時200石(後300石)、武蔵から『兵方三十五箇条』の伝授を受け兵法を相伝したとされ、その子の新免弁介、郷右衛門などの流派に分かれ熊本藩で幕末まで栄えた。 「五尺杖の仕道(技)」 注目するのは、武蔵の技の中には一の弟子寺尾といえども真似の出来ないものがあり、独自の工夫が必要であったということである。それが「五尺杖の仕道(技)」であり、この技は武蔵ではなく、寺尾孫之允が開き、柴任らに伝えた。武蔵は力があって5尺杖を片手で自由に振っていたので、別に技の工夫をする必要もなかったが、寺尾に至って片手では振れないので工夫して会得したというのである。武蔵の力量を述べた具体的事実事例として重要である。
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