島田美術館本
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島田美術館本は縦24センチ、横17センチ。福岡本とほぼ同サイズの袋綴じ1冊本で、本文も福岡市総合図書館本同様すべて漢字カタカナまじり文、各丁1行20字前後22行送りで、墨付き部分は全部で48丁である。福岡本が17行送りの54丁であったのに比べるとかなり文字が小さく詰まった感じである。構成も「兵法武州玄信公傳来」「追加」「自記」の三部構成となっており、巻末に「小倉碑文」を載せていることも全く同じである。即ちこれは原本が元よりこの構成でできていたことを証明している。但し、島田美術館本は十数か所の虫食いによる欠字欠文や、写筆者のミスによる欠文欠字が甚だ多く、そのままでは意味の繋がらない文面が多々見られる。 この写本が重要なのは、「顕彰会本」で初めて世に紹介された『丹治峯均筆記』はこの島田美術館本であったと考えられることである。小説『それからの武蔵』の著者小山勝清がその随筆に「この本は有名であるが、写本であるため、実は私も読んだことはない。この記録を発見したのは武蔵会会長の島田真富氏である」と証言している。島田真富は『宮本武蔵(顕彰会本)』発行発起人の一人で顕彰会の主要メンバーであった島田恒信の甥にあたり、真富も資料収集に協力したと考えられ、豊富な武蔵関係資料を展示した現島田美術館はその延長線上にある。 福岡本との大きな違いは、表紙に貼られた書き題箋の外題が『兵方大祖武州玄信公傳来』となっていることである。ただし、筆跡が本文と異筆であり、この表紙は一見して近現代に付けられたと思われる比較的新しい後装である。中の袋綴じ料紙1丁目の片面の著しい外気焼けと汚れ具合、上部数センチもの虫食い欠損状態から判断して、そこが表紙として長年外気にさらされていたであろうことが一目瞭然である。すなわち『顕彰会本』が参考にした写本は本来の表紙が失われたこの状態にあり、編者の池辺義象は書題不詳のため著者の名で『丹治峯均筆記』として紹介し、末尾参考資料には本文1行目の見出しから「兵法大祖武州玄信公傳」と載せておいたものであろう。これによって『丹治峯均筆記』とした理由が判明した。現在の表紙は最初からのものではなく、その後に資料保護のために付けられたものであり、本文1行目の見出し「兵法大祖武州玄信公傳来」を表紙の書き題箋にして貼り付けたものと判断される。 島田美術館本の写筆原本も『武州傳来記』 写本の末尾に寛政12年(1800)申の10月下旬に筆写したと書き記されているが、筆者の名はなぜか墨で塗り消されている。そしてその元本の筆写事情がそのまま写されている。 《宝暦六年丙子閏十一月日写之蓋應鳳潜先生之需而己于時山田貴古十有七》 すなわち元本は宝暦6年(1756)に鳳潜先生なる者の頼みに応じ、17歳の山田貴古が筆写したものであることが判明した。山田が写した本が原本なのか写本なのかは不明である。しかし本文の付録として付けられた『小倉碑文』の奥書に、 《宝暦丙子之冬閏十一月日写焉以附于武州傳来記之後 鳳潜田直道時歳二拾又五也》 とあり、「宝暦丙子(六年)の時点に『武州傳来記』の後に附けられていたものを写し終えた」と、本来の書名『武州傳来記』があったことを明瞭に書き記していた。宝暦6年といえば延享2年(1745))に丹治峯均が没した僅か11年後のことであり、これは峯均のつけた書名であることに間違いないであろう。また丸枠に「半間庵」(丹治峯均が隠棲した志摩郡檍村の小庵の名前)の書判による落款が書かれていたことから、宝暦6年に山田が写した本こそ丹治峯均自筆の原本であった可能性もある。いずれにせよ「福岡市総合図書館本」「島田美術館本」共に書名は『武州傳来記』で一致した(福岡本「傳來」島田本「傳来」表記)。明治期『宮本武蔵(顕彰会本)』以来謎であった『丹治峯均筆記』の真の書名が2本の写本の校合によって初めて確認された。異なる書名を持つ第3の写本が出現しない限りこの事実は覆らないであろう。
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