建立の経緯・歴史
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山田才吉が、名古屋市内東築地に「大正天皇御大典記念事業」として人造石造りの総高21.8mの大仏建立を計画。東築地には当時、才吉が営んでいた料理旅館・南陽館や名古屋教育水族館があった。1916年(大正5年)愛知県知事・松井茂から大仏建立のための寄付金募集の認可をもらい、一般から寄付を募る形で人造石造りの大仏建立計画を開始した。できるだけ美術的なものにしたいという才吉の考えから、大仏は鎌倉・高徳院の大仏をモデルにした。 才吉が仏教事業に尽くすのは、仏骨の名古屋奉安(覚王山日泰寺)、1910年(明治43年)の名古屋・大龍寺の五百羅漢出開帳および1911年(明治44年)の新出来町から城山への同寺移転など過去に幾度かあり、聚楽園大仏が初めてではない。才吉の大仏建立事務所が当時記した『大仏建立寄進芳名録』大仏建立趣意書によると、才吉が素材に人造石を選んだのは、かつて才吉は経営していた東陽館を火災、南陽館と名古屋教育水族館を水害で失ったことがあったため、火にも水にも負けないものをということで人造石造りの大仏を考えた。同趣意書によると才吉は、これまで建ててきた巨大建築である東陽館や南陽館に続き、この巨大仏に名古屋を世界に示すための役割を持たせることも考えていた。 寄付を募るも資金は思うように集まらず、最終的には才吉が私費を投じて計画を進めることになった。場所も当初の東築地から変更し、才吉が知多郡上野村(現在の東海市)に営んでいた料理旅館「聚楽園」の敷地へ。「大正天皇御大典記念事業」から「天皇陛下(昭和天皇)御成婚記念事業」に変えて1923年(大正12年)に鉄筋コンクリート造りで着工した。工事は名古屋のペンキ職人である山田光吉の山光堂が担当。光吉はモデルとした高徳院の大仏がある鎌倉をしばしば訪れ、数回の模型作りと苦難の末、3年の歳月を費やし大仏を完成させた。大仏の柔和な顔立ち、全体に流れるような曲線美などの技術は、当時の関係各界から賞賛を浴びた。像は当時、日本一の大きさだった。 1927年(昭和2年)5月21日開眼供養が京都・南禅寺管長の河野霧海を大導師に執り行われた。開眼供養には名古屋および地元の実業家600人、各宗の僧侶300人を招待。300人の稚児行列や花火が上がり近隣から多くの参詣者が訪れた。 台座には国家鎮護のため一切経の写経石が埋められ、胎内には南禅寺から才吉が譲り受けた、後桜町天皇の念持仏だった聖観世音菩薩が礼拝所の厨子内に安置された。聖観音の左右には仏教の各宗開祖の像を描いた軸が7幅ずつ掲げられ、聖観音像へ向かって左には親鸞や達磨などが、同右側には一遍、良忍、空海、良弁などが並んでいた。白毫は電照装置により光を放つ仕組みを考えていたが、まもなく取り払われた。才吉が電照装置を取り払った理由は、山田才吉の二女および三女の話によると、才吉の夢枕に大仏が現れ「頭が痛い」と訴えたため。電照装置がどれくらいの期間実際に使われたかどうかは、文献がなく定かではない。 かつて聚楽園大仏では坂角が主になり大仏講が開かれていた。毎年5月8日には、上野町(現在の東海市)観光協会と上野仏教会が共催して、町の協賛のもとに花まつりが開かれていた。 1938年(昭和13年)、聚楽園旅館や大仏を含む聚楽園一体は所有者が名古屋市内の会社に変わり、1983年(昭和58年)に大仏は、保存のために立ち上げられた新たな宗教法人・大仏寺(曹洞宗)の所有となった。同年11月28日に「聚楽園大仏及び境内地」が市指定文化財(市指定名勝)に。建立から半世紀が経ち、体のあちこちにひび割れや内部に雨漏りが起こるようになったため、地元関係者が修復工事を計画した。修復費用を工面するため地元関係者により「聚楽園大仏修繕奉賛会」が設立。市民から募った浄財と東海市の助成をもとに、1984年(昭和59年)から修繕工事が始まり1985年(昭和60年)に修復落慶開眼供養が執り行われた。 1997年(平成9年)大仏境内地に隣接する聚楽園公園は、しあわせ村として東海市により整備された。2006年(平成18年)に山田才吉・三女の私費により参道および仁王像の一部修繕が行われた。2021年(令和3年)に「聚楽園大仏及び仁王像」として仏像本体が市指定文化財(市指定建造物)となった。
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建立の経緯・歴史
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大分県を中心に活躍していた実業家岡本榮三郎によって建立された。岡本は出家し、榮信と名乗ると、1925年(大正14年)に大仏建立計画を発表。1928年(昭和3年)、落慶法要を迎えた。 榮信は、大阪天王寺の坂松山高岳院一心寺の骨仏にいたく関心を寄せており、大仏に一般から募った多くの遺骨・遺髪を混ぜたコンクリートで制作した。作仏は、文化功労者山崎朝雲の高弟、入江爲義による。榮信は、大仏を本尊とした榮信寺を開山し、自らその住職となった。 別府大仏はその落慶と同年に開始された地獄めぐり遊覧バスと並んで別府の新名物となり、榮信寺は参詣者でおおいに賑わった。当時の絵葉書には「東洋一を誇る大佛」と紹介されている。しかし、露天のためか、コンクリートの風化が激しく、昭和40年代に内部拝観が停止され、老朽化のため1989年(平成元年)に解体された。 現在、跡地は別の寺院の墓地となり、お堂に大仏の1/10スケールの原型仏が祀られている。
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