建立の経緯・歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 建立の経緯・歴史の意味・解説 

建立の経緯・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:07 UTC 版)

聚楽園大仏」の記事における「建立の経緯・歴史」の解説

山田才吉が、名古屋市東築地に「大正天皇御大典記念事業」として人造石造り総高21.8mの大仏建立計画東築地には当時、才吉が営んでいた料理旅館南陽館や名古屋教育水族館があった。1916年大正5年愛知県知事松井茂から大仏建立のための寄付金募集認可をもらい、一般から寄付募る形で人造石造り大仏建立計画開始したできるだけ美術的なものにしたいという才吉の考えから、大仏鎌倉高徳院大仏モデルにした。 才吉が仏教事業尽くすのは、仏骨名古屋奉安覚王山日泰寺)、1910年明治43年)の名古屋・大龍寺五百羅漢出開帳および1911年明治44年)の新出来町から城山への同寺移転など過去幾度かあり、聚楽園大仏初めてではない。才吉の大仏建立事務所当時記した大仏建立寄進芳名録大仏建立趣意書によると、才吉が素材人造石選んだのは、かつて才吉は経営していた東陽館を火災南陽館と名古屋教育水族館水害失ったことがあったため、火にもにも負けないものをということ人造石造り大仏考えた同趣意書によると才吉は、これまで建ててきた巨大建築である東陽館や南陽館に続き、この巨大仏名古屋世界に示すための役割持たせることも考えていた。 寄付募る資金思うように集まらず、最終的には才吉が私費投じて計画進めることになった。場所も当初東築地から変更し、才吉が知多郡上野村現在の東海市)に営んでいた料理旅館聚楽園」の敷地へ。「大正天皇御大典記念事業」から「天皇陛下昭和天皇御成婚記念事業」に変えて1923年大正12年)に鉄筋コンクリート造り着工した工事名古屋ペンキ職人である山田光吉の山光堂担当光吉モデルとした高徳院大仏がある鎌倉をしばしば訪れ数回模型作り苦難の末、3年歳月費やし大仏完成させた。大仏柔和な顔立ち全体流れるような曲線美などの技術は、当時の関係各界から賞賛浴びた。像は当時日本一大きさだった。 1927年昭和2年5月21日開眼供養京都南禅寺管長河野霧海を大導師執り行われた。開眼供養には名古屋および地元実業家600人、各宗の僧侶300人を招待300人の稚児行列花火上がり近隣から多く参詣者が訪れた台座には国家鎮護のため一切経写経石が埋められ胎内には南禅寺から才吉が譲り受けた後桜町天皇念持仏だった聖観世音菩薩礼拝所厨子内に安置された。聖観音左右に仏教の各宗開祖の像を描いた軸が7幅ずつ掲げられ聖観音像へ向かって左には親鸞達磨などが、同右側には一遍良忍空海良弁などが並んでいた。白毫は電照装置により光を放つ仕組み考えていたが、まもなく取り払われた。才吉が電照装置取り払った理由は、山田才吉二女および三女の話によると、才吉の夢枕大仏現れ「頭が痛い」と訴えたため。電照装置どれくらいの期間実際に使われたかどうかは、文献がなく定かではない。 かつて聚楽園大仏では坂角が主になり大仏講が開かれていた。毎年5月8日には、上野町現在の東海市観光協会上野仏教会が共催して、町の協賛のもとに花まつり開かれていた。 1938年昭和13年)、聚楽園旅館大仏を含む聚楽園一体は所有者名古屋市内の会社変わり1983年昭和58年)に大仏は、保存のために立ち上げられ新たな宗教法人大仏寺曹洞宗)の所有となった同年11月28日に「聚楽園大仏及び境内地」が市指定文化財市指定名勝)に。建立から半世紀経ち、体のあちこちひび割れ内部雨漏りが起こるようになったため、地元関係者修復工事計画した修復費用工面するため地元関係者により「聚楽園大仏修繕奉賛会」が設立市民から募った浄財東海市助成をもとに、1984年昭和59年)から修繕工事始まり1985年昭和60年)に修復落慶開眼供養執り行われた。 1997年平成9年大仏境内地隣接する聚楽園公園は、しあわせ村として東海市により整備された。2006年平成18年)に山田才吉三女私費により参道および仁王像一部修繕が行われた。2021年令和3年)に「聚楽園大仏及び仁王像」として仏像本体が市指定文化財(市指定建造物となった

※この「建立の経緯・歴史」の解説は、「聚楽園大仏」の解説の一部です。
「建立の経緯・歴史」を含む「聚楽園大仏」の記事については、「聚楽園大仏」の概要を参照ください。


建立の経緯・歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/19 05:00 UTC 版)

別府大仏」の記事における「建立の経緯・歴史」の解説

大分県中心に活躍していた実業家岡本榮三郎によって建立された。岡本出家し榮信名乗ると、1925年大正14年)に大仏建立計画発表1928年昭和3年)、落慶法要迎えた榮信は、大阪天王寺の坂松山高岳院一心寺骨仏にいたく関心寄せており、大仏一般から募った多く遺骨遺髪混ぜたコンクリート制作した作仏は、文化功労者山崎朝雲高弟入江爲義よる。榮信は、大仏本尊とした榮信寺を開山し、自らその住職となった別府大仏はその落慶同年開始され地獄めぐり遊覧バス並んで別府新名物となり、榮信寺は参詣者でおおいに賑わった。当時絵葉書には「東洋一を誇る大佛」と紹介されている。しかし、露天のためか、コンクリート風化激しく昭和40年代内部拝観停止され老朽化のため1989年平成元年)に解体された。 現在、跡地別の寺院墓地となり、お堂大仏1/10スケール原型仏が祀られている。

※この「建立の経緯・歴史」の解説は、「別府大仏」の解説の一部です。
「建立の経緯・歴史」を含む「別府大仏」の記事については、「別府大仏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「建立の経緯・歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「建立の経緯・歴史」の関連用語

建立の経緯・歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



建立の経緯・歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの聚楽園大仏 (改訂履歴)、別府大仏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS