寛和の変
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寛和の変(かんなのへん)は、986年7月31日(寛和2年6月23日)に発生した政変。藤原兼家が外孫・懐仁親王(後の一条天皇)の即位を謀り、花山天皇を退位に追い込んだ事件。
概要
花山天皇は即位後、外戚(叔父)である藤原義懐らの補佐を受けて新政策を展開していったが、皇太子・懐仁親王(後の一条天皇)の外祖父であった右大臣・藤原兼家は政権掌握を狙っていた。985年8月7日(寛和元年7月18日)、寵愛していた女御・藤原忯子が17歳で没し大いに悲しんだ花山天皇が出家の意思さえ見せるようになった。これを好機に天皇の退位・出家を兼家は謀り、蔵人として天皇に仕えていた三男・藤原道兼に対して天皇に出家を執拗に勧めさせた。 寛和2年6月23日の明け方、道兼は花山天皇を道兼の内裏から連れ出し山科の元慶寺で出家させた。嫡男の藤原道隆は弟・藤原道綱と宝剣を清涼殿から凝華舎の東宮の所へ移した。兼家はそれを確認してから関白の藤原頼忠に事を報告した[1]。
幼帝一条天皇の即位
この事件は天皇が宮中を抜け出し出家するという先例のない事件で「非合法に近い手段」でわずか七歳の懐仁親王が一条天皇として即位した[2]。
藤原義懐が事態を知った時には既に天皇は元慶寺において出家を済ませた後であり、義懐も側近の藤原惟成とともに元慶寺において出家した。
一条天皇は幼帝のため摂政が就任する慣わしだが、この即位は外祖父・藤原兼家の陰謀によって皇位の継承が行われたため、従来の前天皇からの命により摂政に就任する従来の手続きを踏むことが出来ず、『園太暦』などの史料によれば、「花山天皇がその場にいるかのような儀式を行った」とあり、異例な手続きで兼家の摂政に就任した[3]。
また、花山天皇の関白を勤めていた藤原頼忠は太政大臣で右大臣の兼家の上官であった。寛和2年7月20日に兼家はそれまで摂関と大臣兼任の慣例を破って右大臣を辞任し、8月25日には朝廷の座次を頼忠より上とするとの宣旨を獲得した。これにより摂政専任の先例(大臣と摂関の分離)を生み出すなど、摂関政治の歴史において一つの転機になる事件であった。
紫式部の父為時が無官となる
花山天皇の親王時代に学問を教え、当時式部丞・六位蔵人になっていた紫式部の父藤原為時(以降10年に渡り散位となる)や、尾張国郡司百姓等解文で有名な藤原元命(甥または叔父が惟成)のその後の出世にも影を落とした。
参考文献
- 佐藤宗諄「寛和の変」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4095230016)
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