誕生から官途への出発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:31 UTC 版)
天禄3年(972年)右少将・藤原義孝の長男として生まれ、祖父の摂政・藤原伊尹の猶子となる。しかし、祖父は同年中に薨去し、さらに天延2年(974年)父・義孝も急死したため、一族の没落を受けて外祖父・源保光の庇護を受けて成長する。源保光は文章生から式部大輔を務めた紀伝道の学者である一方、太政官の行政事務の中枢である弁官を歴任し蔵人頭も務めるなど、漢学に造詣が深く、内廷・外廷(太政官)両方の吏務に通じていたらしく、この学問や知識をもって行成に十分な教育を施したと想定される。 天元5年(982年)桃園邸で元服し、永観2年(984年)外戚関係(従兄弟)にある春宮・師貞親王の年爵によって従五位下に叙爵する。同年、師貞親王が即位(花山天皇)すると、行成は寛和元年(985年)侍従に任ぜられ、翌寛和2年(986年)昇殿を許されるなど、天皇の身近に仕えた。しかし、同年6月に右大臣・藤原兼家の策謀により花山天皇は出家・譲位してしまい(寛和の変)、行成は外戚の地位を失った。この事件によって行成は少なからず影響を受けたと想定されるが、その後も寛和3年(987年)従五位上、正暦2年(991年)正五位下、正暦4年(993年)従四位下と位階の上ではそれなりに立身を続ける。これについては、行成の家柄・資質のほか、外祖父である権中納言・源保光の庇護も働いていたと考えられる。しかし、従四位下への叙位によって左兵衛権佐を解かれた後、遙任の備後介のみを帯びてしばらく他の京官に任じられた形跡がなく、任官面での不遇は否めなかった。なお、この間の永祚元年(989年)には源泰清の娘と結婚している。
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