誕生から将軍就任までとは? わかりやすく解説

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誕生から将軍就任まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:15 UTC 版)

徳川家光」の記事における「誕生から将軍就任まで」の解説

慶長9年1604年7月17日徳川秀忠次男として江戸城西の丸生まれる。母は豊臣秀吉養女浅井長政三女)・於江与徳川家世継であった父・秀忠には慶長6年1601年)に誕生した長男長丸がいたが、既に早世していたため世子として扱われ祖父家康と同じ幼名竹千代与えられた。誕生に伴い明智光秀家臣斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝松平信綱岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓付けられる慶長10年1605年)、家康秀忠将軍職譲位し大御所となる。幼少時家光病弱吃音があり、容姿美麗とは言えなかったと言われる慶長11年1606年)に弟・国(後の忠長)が誕生する竹千代国松の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば秀忠らは忠長寵愛しており、竹千代廃嫡危機感じた福は駿府家康実情訴え憂慮し祖父家康長幼の序明確にし、竹千代世継決定確定したと言われる。これらは家光死後成立した巷説であるが、同時代史料検討から、家光世継決定元和年間であると考えられている。 元和2年1616年5月には、竹千代守役として酒井忠利内藤清次青山忠俊の3人が家光付け年寄となり、9月には60数名少年小姓として任命され家光年寄衆家臣団となる。元和3年1617年)には西の丸移り元和4年1618年)には朝廷勅使迎えており、公式の場への出席見られる元和2年1616年)の家康死去延期されていた元服元和6年1620年)に済ませ竹千代から家光改め従三位権大納言任官する。「家光」の諱は金地院崇伝選定した崇伝記した本光国師日記』には、当初は「家忠」を勘案したが、平安時代公卿左大臣藤原家忠の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとある。「家」は明らかに家康の「家」で、以後徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱に使用する通字となった元和8年1622年)、鎧着初具足始めが行われ、具足親加藤嘉明務めた元和9年1623年)には死去した内藤清次後任として酒井忠世酒井忠勝年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将任じられる同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日伏見城将軍宣下 を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠江戸城西の丸隠居し家光本丸へ移る。家光結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年1623年8月には摂家鷹司家から鷹司孝子江戸へ下り同年12月には正式に輿入れする

※この「誕生から将軍就任まで」の解説は、「徳川家光」の解説の一部です。
「誕生から将軍就任まで」を含む「徳川家光」の記事については、「徳川家光」の概要を参照ください。

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