西条における屋台(楽車)の発祥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:15 UTC 版)
「西条祭り」の記事における「西条における屋台(楽車)の発祥」の解説
西条における屋台は江戸時代中期から存在が確認できるが、その起源や発祥については古文書等の史料が残されていないため謎が多く、現在まで未だ解明されていない。かつてはその起源を京都祇園祭の山や鉾に求めるものがほとんどであったが、近年は西条の屋台の形態に祇園祭の直接的な影響はほとんどなく、近世社会において各地方と京都を結ぶ関係や必然性はあまりないと否定されている。その一方で、海を中心とする物流体制に加えて各藩の年貢米や特産品が廻送された大坂周辺との文化交流の可能性を重視するべきだと考えられている。現在では江戸時代中期に西条に屋台が登場した背景として、海上交通の発達と藩領内への貨幣経済の浸透に加え、経済力を持ってきた西条の町衆や豪農が上方の祭礼ならって新しい「風流」を取り入れたからだとされている。 また、西条市氷見地区には屋台の発祥について「石岡神社の別当寺である吉祥寺の住職が河内国誉田八幡宮の山車を見て帰り、この近郷では類例が無いので、これに似たものを竹で作り奉納したのが始まりで、これが後の寺の下屋台である」という伝承がある。この伝承について、西条地方の祭礼を研究している佐藤秀之氏は自著で「これは『摂陽奇観』や『河内名所図会』に「だんじりの始まり」と記された説によるらしい。しかし、摂河泉地方の地車研究家若松均らによって「あやふやな説」と誤りが指摘されている。」としている一方で、「誉田祭だんじり起源説を西条氷見地方で一番寺之下の起源として伝えていたことは、上方との交流の点で着目される」と述べている。この伝承には諸説あるため史実と断定することは難しいが、石岡神社宮司の子孫の方が所有する古文書から享保19年(1734)に伝承を裏付けられるとする指摘もある。
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