戦局逆転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:31 UTC 版)
8月22日に徳川家康が武田領の駿河田中城へ侵攻したため(『家忠日記』)、勝頼は和平仲介を断念し、兵の一部を残し8月28日に撤兵した(『上越市史』別編(上杉氏史料集) - 1666号)。 勝頼が帰国すると間もなく景勝・景虎の和平は破綻。翌9月に入ると北条氏政がようやく本腰となり、氏照・氏邦が氏政の命を受け越後に向けて進軍を開始した。小田原北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、小田原北条勢は樺沢城に氏邦・高広らを置き、景広を遊軍として残置し、撤退した。 春日山城下を撤退した武田勢はこの頃、春日山城・御館と坂戸城の間を当てどなく徘徊していただけであったが、結果的に景虎方・小田原北条勢に対する抑止力となった。 9月下旬には再び家康が駿河田中城への攻撃の動きを見せ、勝頼は和平仲介の余裕を失うが、景勝は坂戸城と信濃を結ぶ妻有城を武田方に割譲し、武田方の大熊長秀と市河信房が入城している。 10月に入ると、景虎方では御館を初めとして兵糧の窮乏が相次いだ。いったんは兵糧搬入に成功し、春日山城を攻め立てたりもしたが、如何せん諸将との連絡が途切れがちなので勢いは知れたものであり、この状態で年を越すこととなった。なお、天正7年7月20日には勝頼の妹・菊姫が景勝に輿入れをしている。
※この「戦局逆転」の解説は、「御館の乱」の解説の一部です。
「戦局逆転」を含む「御館の乱」の記事については、「御館の乱」の概要を参照ください。
- 戦局逆転のページへのリンク