依藤城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:21 UTC 版)
享禄3年(1530年)5月15日、堺公方の重鎮である柳本賢治は別所氏の要請を受けて京を出立、小寺氏、別所氏の軍と合流し「依藤城」を攻城した。 この依藤城がどこの城であったのか、『小野市史』によれば「豊地城もしくは東条町の小沢城が比定される。依藤氏が一ヶ月半もの間柳本勢を引き受けて抗戦したことを考えれば、平地居館である豊地城よりも比高40メートルほどの尾根先端の独立峰上に築かれた小沢城の可能性の方が高いかもしれない」とし、依藤城とは豊地城と小沢城のいずれかが比定され、その中でも小沢城の可能性が高いとしている。一方、「西方2.5kmの小田城、北東2kmの小沢城とともにこれら支城を有効に利用し、一か月半にわたって抗戦することができた」としており、小田城と小沢城との連係した働きによってしのぐことができたとし『小野市史』とは別の見解もある。 いずれにしても依藤氏との戦いは一ヶ月半に及んだ。ところが同年6月29日の夜、酒に酔っていた柳本賢治は殺害されてしまった。この時の様子を『二水記』によると、殺害したのは大和山伏の「浄春」坊と記している。浄春は夜陰に乗じて賢治の陣所に忍び入り賢治を刺殺、陣所から脱出に成功した。これを命じたのは浦上村宗の被官中村助三郎であった。総大将を失った柳本軍に依藤軍が襲いかかり百余人が討たれ、柳本軍は退却した。この時の功労者である浄春、中村助三郎に細川高国と村宗から感状が与えられている。 村宗は依藤城の戦いの最中に小寺氏、別所氏、在田氏の居城を攻め、それに伴って高国も7月6日に備前を出立、高砂に着陣、7月27日に御着城が落城し小寺政隆も戦死、別所就治も敗北し三木城から逃走した。 「中嶋の戦い」も参照 しかし、大物崩れで高国と村宗が敗死すると、別所就治の勢力が盛り返し、相対的に依藤氏を圧迫した。「今度依藤牢人抱申付而」(『清水寺文書』)とあり「依藤氏はこの頃、別所氏に滅ぼされたものらしい」とされている。 その後永禄年間には別所氏の一族の別所重宗が城主となっていた。「主郭は織田氏の技術援助を受け、天正の初めに再改修された可能性がある」しと、天正の初期に織田信長の築城技術を取り入れたとしている。これは三木城の別所氏共々、重宗も信長から優遇されていた可能性が示唆されている。 天正6年(1578年)に三木合戦が勃発すると、重宗は三木城主の甥別所長治と兄の吉親ら別所氏と対立し羽柴秀吉に加担する。2年後の天正8年(1580年)に三木合戦が終結、長治と吉親らが自殺すると、同年6月に秀吉から播磨8城の破城令が下り豊地城も破却された。破城を実施したのは一柳氏であった。
※この「依藤城の戦い」の解説は、「豊地城」の解説の一部です。
「依藤城の戦い」を含む「豊地城」の記事については、「豊地城」の概要を参照ください。
- 依藤城の戦いのページへのリンク