泉大津
泉大津
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 08:46 UTC 版)
泉大津における地車の起源は和泉市の泉井上神社(和泉五総社)で行われていた飯山渡御の古例に従って穴師神社でも行われた飯ノ山だんじり(御膳だんじり)が始まりとされている。この渡御は天平14年(742年)、聖武天皇の時代に泉州一帯が旱魃飢饉に陥った際、天皇は橘諸兄に命じて米を和泉五社に供し、余りを窮民に施せと云われたことに始まる。里人達は施された米を台車に乗せ、領民に見せ懸命に雨乞いをしたという。お陰で旱魃は去り、窮地を脱した領民達が、毎年秋の収穫期に感謝を込めて、だんじりに米を盛って祝いあった。当初は唯の台車であったモノが、時を経る内に屋根が付き、注連縄を貼り、榊を飾り、台車に彫刻をし、段々豪華になり、夜中を期して町中をドーンドンドーンと太鼓を叩きながら練り歩き、夜明け前に神社に着き奉納するという、現在も変わらない神事が続いて来た。この渡御は天正年間に廃止されたが、なぜか穴師地区にだけ残り、現在も続けられている。 また、時代とともに地車は形を変えていき濱八町地区では地車同士をぶつけ合うカチアイが行われるようになった。このカチアイは堺の鳳や津久野、兵庫の宝塚などで、警察が介入するほどの激しいぶつけ合いが各地で行われてきたが、現在は濱八町地区にしか残っていない。
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「泉大津」の例文・使い方・用例・文例
- 泉大津市という市
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