名胡桃城事件
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天正15年に豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令した。徳川氏、北条氏、真田氏は共に秀吉の権威に伏した。沼田領については天正17年に裁定が行われ、昌幸が「祖先墳墓の地」であると主張した名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領に、それ以外の沼田城を中心とする三分の二は北条領と定められた。同年7月に秀吉家臣の津田盛月と富田一白、徳川家康家臣の榊原康政が沼田に派遣され、沼田城は北条氏に引き渡された。真田氏は手放した土地の代替地として信濃国箕輪を与えられた。 同年11月3日に、沼田城代の北条氏家臣猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城代鈴木重則家臣である中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状で重則を上田城に呼び寄せた隙に、名胡桃城を占領した。重則は道中の岩櫃城において計略に気付き、急いで城に戻ろうとしたが間に合わず、恥じて正覚寺において切腹した。 昌幸は直ちに寄親である家康を通して秀吉に訴えでた。秀吉は11月21日付けで真田昌幸に書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」旨を記している。24日には北条氏との手切れ書を北条氏や諸大名に配布した。先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。北条家当主氏直は豊臣側の詰問に対し、同年12月7日付け書状で「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」旨を釈明している。 翌年3月に秀吉は軍勢を出立させた。小田原征伐の結果、後北条氏が滅亡すると全沼田領は真田氏が安堵し名胡桃城は廃城となった。実際に使用されたのは約10年間であった。
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名胡桃城事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)
11月10日、秀吉は佐野房綱に対し、氏政の上洛が無い場合、北条氏討伐のために関東に出馬することを伝えた。 一方同年10月下旬、北条氏は真田領となった領分の拠点である名胡桃城に沼田城代猪俣邦憲を侵攻させ奪取、いわば先の秀吉の裁定を軍事力で覆した。 この事件は真田氏から徳川氏を通して秀吉に伝えられた。北条方からは弁明の使者として石巻康敬が上洛し、豊臣氏側からは先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した。これに対して氏直は遅れて12月7日付の書状で、氏政抑留や北条氏の国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことを挙げた上で、名胡桃城事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。また名胡桃城事件については、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返った結果であり、「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」「名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない」、「既に名胡桃城は真田方に返還した」と弁明している。 しかし同時期、上野鉢形城主である北条(藤田)氏邦が下野の宇都宮国綱を攻めており、これも秀吉の施策に反する行為である。 11月、秀吉は関東の領主たちに「氏政の11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを通知した。 11月21日付で真田昌幸にも書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」「来春(年頭)に出兵する」旨を記している。 11月24日、秀吉が家康へ書状を送り、来春の出陣決定と陣触れを出したことを伝え、軍事の相談のため家康の上洛を要請した。また津田盛月・富田一白を派遣して家康領内の駿河国沼津の三枚橋城に在番させ拠点地としての用意をさせること、北条からの使者石巻康敬は北条氏の返事次第で国境で処刑することも要請した。このように家康に対しても北条討伐の意向を言明し、どちらかといえば北条氏と懇意であった家康の動向が注目されたが、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月に上洛し、秀吉に同意の意向を伝えるとともに自身も対北条戦の準備を開始した。 また、同日付で秀吉は北条氏に対し、5ヶ条の宣戦布告とされる書状を送った。この書状は12月5日に三枚橋城に着いた津田と富田により、北条氏へ届けられた。 秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し、すなわち「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした」と述べている。 氏直は12月17日、北条領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への翌年1月15日の参陣を命じた。
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