名胡桃城事件とは? わかりやすく解説

名胡桃城事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 04:06 UTC 版)

名胡桃城」の記事における「名胡桃城事件」の解説

天正15年豊臣秀吉大名間の私闘禁ずる惣無事令発令した徳川氏北条氏真田氏は共に秀吉権威伏した沼田領については天正17年裁定が行われ、昌幸が「祖先墳墓の地」であると主張した名胡桃城含めた全体三分の一真田領に、それ以外沼田城中心とする三分の二北条領と定められた。同年7月秀吉家臣津田盛月富田一白徳川家康家臣榊原康政沼田派遣され沼田城北条氏引き渡された。真田氏手放した土地代替地として信濃国箕輪与えられた。 同年11月3日に、沼田城代の北条氏家臣猪俣邦憲が、真田氏名胡桃城鈴木重則家臣である中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状重則上田城呼び寄せた隙に、名胡桃城占領した重則道中岩櫃城において計略気付き急いで城に戻ろうとしたが間に合わず恥じて正覚寺において切腹した。 昌幸は直ち寄親である家康通して秀吉訴えでた。秀吉11月21日付け真田昌幸書状送り、「今後北条氏出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏赦免しない」旨を記している。24日には北条氏の手切れ書を北条氏諸大名配布した先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月富田一白派遣され関係者引き渡し処罰求めたが、北条方はこれを拒否した北条家当主氏直は豊臣側詰問対し同年12月7日付け書状で「名胡桃城真田氏から引き渡され北条となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」旨を釈明している。 翌年3月秀吉軍勢出立させた。小田原征伐結果後北条氏滅亡すると全沼田領は真田氏安堵し名胡桃城廃城となった実際に使用されたのは約10年であった

※この「名胡桃城事件」の解説は、「名胡桃城」の解説の一部です。
「名胡桃城事件」を含む「名胡桃城」の記事については、「名胡桃城」の概要を参照ください。


名胡桃城事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)

小田原征伐」の記事における「名胡桃城事件」の解説

11月10日秀吉佐野房綱対し、氏政の上洛が無い場合北条氏討伐のために関東出馬することを伝えた一方同年10月下旬北条氏真田となった領分拠点である名胡桃城沼田城猪俣邦憲侵攻させ奪取、いわば先の秀吉裁定軍事力覆した。 この事件真田氏から徳川氏通して秀吉伝えられた。北条方からは弁明使者として石巻康敬上洛し、豊臣氏側から先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月富田一白派遣され関係者引き渡し処罰求めたが、北条方はこれを拒否した秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛意向を受け、それまで非議許し上野沼田領支配さえ許したしかるにこの度の名胡桃攻め秀吉裁定覆す許し難い背信」であると糾弾した。これに対して氏直は遅れて12月7日付の書状で、氏政抑留北条氏国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康臣従した際に朝日姫婚姻大政所人質とした上で上洛する厚遇受けたことを挙げた上で、名胡桃城事件における北条氏対す態度との差を挙げ抑留国替がなく心安く上洛遂げられるよう要請した。また名胡桃城事件については、氏政や氏直の命令があったわけではなく真田方の名胡桃城主が北条方に寝返った結果であり、「名胡桃城真田氏から引き渡され北条となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」「名胡桃城上杉動いたため軍勢沼田入れたにすぎない」、「既に名胡桃城真田方に返還した」と弁明している。 しかし同時期、上野鉢形城主である北条藤田)氏邦が下野宇都宮国綱攻めており、これも秀吉施策反す行為である。 11月秀吉関東領主たちに「氏政の11月の上洛がない時は来春北条討伐を行う」ことを通知した11月21日付で真田昌幸にも書状送り、「今後北条氏出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏赦免しない」「来春年頭)に出兵する」旨を記している。 11月24日秀吉家康書状送り来春出陣決定陣触れ出したことを伝え軍事相談のため家康の上洛を要請した。また津田盛月富田一白派遣して家康領内駿河国沼津三枚橋城在番させ拠点としての用意をさせること、北条からの使者石巻康敬北条氏返事次第国境処刑することも要請したこのように家康に対して北条討伐意向言明しどちらかといえば北条氏懇意であった家康動向注目されたが、秀吉北条氏仲介断念した家康12月上洛し、秀吉同意意向伝えとともに自身も対北条戦の準備開始したまた、同日付で秀吉北条氏対し、5ヶ条の宣戦布告とされる書状送った。この書状12月5日三枚橋城着いた津田富田により、北条氏届けられた。 秀吉小田原征伐前に、各大名書状発した。その書状中に「氏直天道正理背き帝都に対して奸謀企つ何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。所詮普天下、勅命逆ふ輩は早く誅伐加へざるべからず」と記し、すなわち「天道背き帝都に対して悪だくみ企て勅命に逆らう氏直に誅伐加えることにした」と述べている。 氏直は12月17日北条領国内の家臣他国衆に対して小田原への翌年1月15日の参陣を命じた

※この「名胡桃城事件」の解説は、「小田原征伐」の解説の一部です。
「名胡桃城事件」を含む「小田原征伐」の記事については、「小田原征伐」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「名胡桃城事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「名胡桃城事件」の関連用語

名胡桃城事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



名胡桃城事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの名胡桃城 (改訂履歴)、小田原征伐 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS