石巻家貞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 15:25 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 家貞→家種 |
別名 | 勘解由左衛門尉、下野守 |
主君 | 北条氏綱→氏康→氏政 |
氏族 | 石巻氏 |
子 | 板部岡康雄、康保、康敬、天用院 |
石巻 家貞(いしまき いえさだ)は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
一部史料で見られる「石巻康信」も家貞と同一人物とされ、これが真実であるなら息子達と同様に北条氏康から「康」の1字を賜ったことになる。[要出典]
生涯
石巻氏は三河国八名郡石巻郷(愛知県豊橋市)の国人という[注釈 1]。
御馬廻衆寄親や相模西郡郡代を務めた[2]。『北条氏所領役帳』では御馬廻衆の筆頭として321貫文の知行高が記されている。
浩治元年(1555年)から狩野泰光と共に評定衆を務めていることが確認されている[3]。
永禄元年(1558年)の古河公方・足利義氏の鶴岡八幡宮参詣に家老として参加し、続く氏康邸御成には義氏へ御礼を進上した[4]。
永禄11年(1568年)6月までは評定衆としての活動が確認されるが、永禄12年(1569年)6月からは嫡子・康保が評定衆を務めているため、その間に家督を康保に引き継いだと思われる。また、康保は御馬廻衆寄親や相模西郡郡代の役割も引き継いでいる[5]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』新人物往来社、2005年、ISBN 4404033168
- 黒田基樹『戦国関東覇権史 北条氏康の家臣団』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、2021年。ISBN 978-4-04-400668-6。
固有名詞の分類
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