太田泰昌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/27 08:20 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 永禄6年(1563年)8月4日 |
別名 | 又三郎、弾正忠、豊後守、宗清(法名) |
主君 | 北条氏綱→北条氏康→北条氏政 |
氏族 | 秀郷流太田氏 |
太田 泰昌(おおたやすまさ、生没年不詳)は戦国時代の武将。後北条氏家臣。
生涯
天文3年(1534年)2月に鶴岡八幡宮の廻廊奉行の一人として見えるのが初見。この時は、玉縄衆の1人であったとみられるが、その後、河越衆、松山衆と配置換えされている。同10年(1541年)1月に武蔵河越城で戦功を挙げている。同23年(1554年)の下総国古河城攻略でも戦功を挙げている[1]。
永禄2年(1559年)の「役帳」では、松山衆の寄親の1人として、相模国千代を本領に東郡須崎、梶原分、武蔵国吉見郡大串之内乙卯検見、比企郡戸森、上野国高嶋江の合わせて529貫120文を知行している。永禄6年(1563年)8月4日死去[1]。
脚注
参考文献
- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、ISBN 978-4-86403-289-6
関連項目
- 太田泰昌のページへのリンク