鈴木繁宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/12 10:07 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 戦国時代初期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 大永5年(1525年)3月17日 |
別名 | 鈴木兵庫助 |
戒名 | 洞林院殿前薩州大守源叟道水居士 |
墓所 | 静岡県沼津市西浦江梨、航浦院 |
官位 | 兵庫助、薩摩守 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 堀越公方→伊勢盛時(北条早雲)→北条幻庵→大道寺盛昌 |
氏族 | 江梨鈴木氏 |
父母 | 父:鈴木繁用 母:住(今川氏の娘) |
妻 | 勢(内藤氏の娘) |
子 | 繁朝、繁勝、女子 |
特記 事項 |
翠園文庫『鈴木家代々法号』による。 |
鈴木 繁宗(すずき しげむね)は、戦国時代初期の武将。通称は兵庫助、薩摩守[1]。明応地震津波時における伊豆江梨(現・沼津市西浦江梨)の領主。
略歴
明応2年(1493年)に伊豆国内の混乱に乗じて伊勢盛時(北条早雲)が伊豆に討ち入りした際、江梨の鈴木兵庫助(繁宗)は堀越公方から離反していち早く馳せ参じた(『北条五代記』)[2]。また、江梨鈴木家文書中の大道寺盛昌書状に「御入国前後の忠節」や「数ケ度之忠節御感状数通拝領」により「其郷(江梨)不入子細者、早雲寺殿様駿州石脇御座候時より申合」とあり、早雲による伊豆討入り前後の鈴木氏の忠節により江梨が不入の特権を得ている[3]。
明応7年(1498年)に発生した明応地震の際に江梨村にも大津波が押し寄せたとされ、『開基鈴木氏歴世法名録』[4]には以下のように記されている。
明応七午年八月廿五日未刻江梨村津浪寄来而庶人海底沈没不知数此時家系及重代之財宝等悉失之
また、明暦3年(1657年)再編の『航浦院縁起』[5]にも以下のように記されている。
後光厳院御宇貞治之頃鎌倉公方足利氏満公被招請伊豆相模両国之船大将鈴木兵庫允繁伴四世次郎兵衛尉繁用父之航浦院殿前左京兆為菩提後花園院御宇文安年中造立ス以法名号航浦院本尊者後土御門院御宇明応七午年八月□五日至未刻津浪寄来如覆天地依之男女之庶人海底之滓成者不知数此代者繁用之嫡子兵庫允繁宗也女子壱人引汐門外之榎二本之間ニ打挟両眼出露命且助ス然ハ萬行山峯之薬師竭丹衷祈祷七日之間平癒任立願奉安置当寺山号萬行山ト云右者系図之趣□予平昔依所聞為後覚記之備当寺什物者也
重家ヨリ十四代 明暦三丁酉八月四日
鈴木三郎左右衛門尉穂積重義
以上のように、この大津波により多くの庶人が海底に沈み、江梨鈴木氏の系図と財宝が家屋とともに流出したと記録されている。また、この津波で鈴木繁宗の娘が両眼を患ったため、航浦院の薬師如来に回復を祈ったところ完全に治癒したとされる。
脚注
- ^ “翠園文庫「鈴木家代々法号」”. 昭和女子大学図書館. 2025年8月7日閲覧。
- ^ 静岡県姓氏家系大辞典編纂委員会『静岡県姓氏家系大辞典』角川書店、1995年、558-559頁。
- ^ “江梨鈴木家文書「大道寺盛昌書状」”. 神奈川県立歴史博物館. 2025年8月7日閲覧。
- ^ 辻真澄『沼津史談第5号「豆州江梨の鈴木氏について」』沼津史談会、1967年3月。
- ^ 辻真澄『沼津史談第5号「豆州江梨の鈴木氏について」』沼津史談会、1967年3月。
参考文献
- 静岡県姓氏家系大辞典編纂委員会『静岡県姓氏家系大辞典』角川書店,1995年,558-559頁。
- 小和田哲男『後北条氏研究』1983年。
関連項目
- 鈴木繁宗のページへのリンク