鈴木繁定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/02 04:52 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 慶長13年(1608年)3月24日 |
別名 | 通称:丹後守 |
戒名 | 月窓院殿前丹州大守学翁道参居士 |
墓所 | 静岡県沼津市西浦江梨、航浦院 |
主君 | 北条氏政、大道寺政繁 |
氏族 | 江梨鈴木氏 |
父母 | 父:鈴木繁朝 母:作(鈴木繁宗の娘) |
兄弟 | 繁光、繁精、繁定、重経、女子、女子 |
妻 | 道(中川氏の娘) |
子 | 繁顕 |
特記 事項 |
翠園文庫『鈴木家代々法号』による。 |
鈴木 繁定(すずき しげさだ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。戦国大名・後北条氏の家臣で、伊豆水軍の武将の一人。通称は丹後守[1]。
略歴
大道寺政繁に従って精鋭と名高い河越衆に属し、河越城宇佐曲輪に屋敷を有した[2]。
北条氏政から駿河湾の沿岸警備について度々の指示を受けていた江梨の「鈴木丹後殿」は繁定であるとされる[3][4]。氏政から江梨五ヶ村の鈴木丹後殿に宛てた元亀4年(1573年)7月16日の北条家法度書では、無許可の便船の停止のほか、着岸する他国船があれば大小に関わらず人数や荷物を改め即刻注進し、もし怠れば代官・名主を処分することを厳密に申し付けられている[4]。また、天正2年(1574年)7月10日に氏政から江梨鈴木丹後殿へ宛てた北条家朱印状では、駿河国を支配する武田氏からの船手判を示して駿河船は今後この手判を持つことを知らせ、不審な様子があれば船を押さえ注進するよう指示を受けている[4]。
脚注
- ^ “翠園文庫「鈴木家代々法号」”. 昭和女子大学図書館. 2025年8月7日閲覧。
- ^ 関為彌 (1986年4月). “ルーツ探訪(そのニ)江梨鈴木繁朝の嫡子 大学繁脩の父は繁光か”. 沼津史談 (沼津史談会) (36): 21-36.
- ^ 静岡県姓氏家系大辞典編纂委員会『静岡県姓氏家系大辞典』角川書店、1995年、558-559頁。
- ^ a b c “江梨鈴木家文書”. 神奈川県立歴史博物館. 2025年8月7日閲覧。
参考文献
- 静岡県姓氏家系大辞典編纂委員会『静岡県姓氏家系大辞典』角川書店,1995年,558-559頁。
- 辻真澄「豆州江梨の鈴木氏について」『沼津史談 第5号』沼津史談会,1967年,25-40頁。
外部リンク
関連項目
- 鈴木繁定のページへのリンク