新説に対する一般の受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:39 UTC 版)
作家などは身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ北条早雲(伊勢宗瑞)のような活躍はできまいと長年論じてきた。歴史学者桑田忠親の著作や小説家海音寺潮五郎の史伝などはその典型である。 1980年代に研究者の間で出自がほぼ定説化され、1990年代に生年についての新説が提示された以降の小説やメディア、自治体ではこれらの新説も採り扱われるようになった。とはいえ、2000年代以降でもその姿で中高年の再挑戦の見本のように報じるテレビ番組や作家もいる。 司馬遼太郎の『箱根の坂』(1984年)では、その時期の研究を反映して備中伊勢氏とし、政所執事伊勢貞親の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定である。しかし、傍流ゆえに一族の中では軽んじられていたとし、伊勢家当主の手によるとされる名品「作りの鞍」を実際に製作する職人的人物として描いている。年齢については当時の通説の享年88説で「大器晩成」としている。なお、北川殿は血の繋がらない義理の妹とされており、早雲の駿河下向は伊勢氏一族の意向と関わりなく北川殿を救援するために独断で行ったものとして描かれる。 2005年放送の『その時歴史が動いた:戦国をひらいた男〜北条早雲 56才からの挑戦〜』(NHK、ゲスト:小和田哲男静岡大学教授)では、早雲を幕府の高級官僚としているが、年齢については享年88説を採り「大器晩成」として描いている。 21世紀に入って出版された南原幹雄の『謀将 北条早雲』(2002年)や伊東潤 『疾き雲のごとく〜早雲と戦国黎明の男たち〜』(2008年)、海道龍一朗『早雲立志伝』(2011年)、富樫倫太郎『北条早雲』(2013年)、羽田真人『針をも積み珠をも砕く』では、近年の研究を反映して名門伊勢氏出身の幕府高級官僚とし、また康正2年生まれ説を採り、北川殿は姉となっている。 ゆうきまさみの漫画『新九郎、奔る!』(2018年-)は近年の研究を反映し、伊勢氏支流である備中伊勢氏出身で幕府申次衆伊勢盛定の次男である伊勢新九郎盛時として康正2年(1456年)生まれ享年64歳説を採る。出自・生育に関しては諸説を折衷する形で組み込んでおり、生母は父盛定の側室で尾張国国衆・横井掃部助の娘(『北条五代記』による)とする。盛時の出生・成長地は京都で、幼少年期に父盛定の被官で盛時の傅役である大道寺右馬助に預けられ、大道寺が代官を務める山城国宇治で育った。また今川家へ嫁ぐ姉(のちの北川殿)は父盛定の正室で伊勢氏宗家伊勢貞国の娘を母とする異母姉とし、足利義視に仕えていたのは盛時ではなく異母兄(姉と同母)の貞興とした上で義視が西軍に離反しようとした際に義視に従う兄貞興は伊勢一族によって粛清されたこと、盛時の父との説もあった伊勢貞藤は伯父であり盛時生母の再婚相手であること、父盛定の所領である備中荏原郷には盛時の元服後若年の頃に下向し父に代わり在地の領主名代として活動したこと、後に御由緒六家と呼ばれる盛時の直臣の多くは父盛定の代からの譜代の家臣の子弟で早い時期から盛時に従っていたこと、などでこれまでの諸説が持つ要素を取り入れようとしている。 宮下英樹の漫画『センゴク』では主人公との関りが深い小田原征伐を描くにあたり、若き幕臣として描かれている。 北条五代観光推進協議会(北条氏ゆかりの8市2町で構成)では、その出自を備中伊勢氏の幕臣として、生年については享年88説と享年64説を併記している。 岩波書店の国語辞典『広辞苑』では、伊勢宗瑞に関する解説は、第六版まで「北条早雲」の項目で掲載されていたが、第七版では、解説が「伊勢盛時」の項目に移り、「北条早雲」の項目は、「伊勢盛時」への参照用の見出しとなった。だが、生年に関しては、第七版でも享年88説を採用している。
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