大和日置系統 (吉田流)
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日置弾正政次の弟子、吉田重賢を祖とする流れ。吉田家が代々伝えた事から、吉田流とも呼ばれる。 出雲派 吉田重政の嫡子、重高(助左衛門・出雲守、号:露滴)(永正5年(1508年) - 天正13年(1585年))を祖とする。 上述の経緯で、吉田氏の家伝は主君六角義賢が継承していたが、重高は義賢から返伝を受けた。重高以後は子孫の助左衛門家で継承され、重賢ら代々の受領名から出雲派と呼ばれた。この系統は吉田家の嫡流ではあるが、技術的には雪荷派が本流とする見解もある 。 重高の嫡男重綱(助左右衛門、号 華翁・花翁・道春)(天文23年(1554年) - 天正10年(1582年))は父に先立ち28歳で没する。『明良洪範』によれば、重綱の嫡子豊隆は幼少であったため、婿の吉田重氏(印西派祖)に伝書類が預けられていたが、豊隆成長後に返伝がなされず騒動になったという。 豊隆は後に岩槻藩主阿部正次に仕えた。子孫も代々阿部氏に仕え、転封により福山藩に移り、家老職も務めた。道統は明治まで継承され、幕末の当主豊辰は阿部正弘以降の藩主の師範を務めたほか、執政・藩校誠之館文武総裁を務めた。 福山以外には阿部氏分家(刈谷藩のち佐貫藩主)、米沢藩などにも伝わった。 重高門下から山科派、左近(右)衛門派、大心派、重綱門下から寿徳派、印西派が分派した。山科派 吉田重高の弟子、片岡家次(平右衛門)またはその孫の片岡家清(助右衛門)を祖とする。 家次は重高の死後、その三男業茂(左近(右)衛門派祖)を輔佐した。子の家延(平右衛門)も茂氏(大蔵派祖)らに師事し技術を伝え、その次男家清は業茂の嫡子茂武の女婿で、茂氏に師事した。このように片岡家は業茂の子孫と縁が深く、伝書も山科・大蔵各派で類似するという。『本朝武芸小伝』は家清を山科派祖としている。 左近右衛門派 吉田重高の三男、吉田業茂(左近(右)衛門)を祖とする。 業茂は父および片岡家次に師事し、後に叔父重勝(雪荷)にも師事したという。始め豊臣秀次、後に前田利家に仕えた。子孫も技術を伝え、加賀藩、富山藩に仕えた。この系統は後に左近派とも呼ばれた。 大蔵派 吉田業茂の三男、吉田茂氏(大蔵)(天正6年(1578年)- 正保元年(1644年))を祖とする。 茂氏は父に師事し、始め富田信高、後に前田利常に仕えた。大坂の陣で武功を立て、1,400石に加増される。三十三間堂の通し矢を7回試み、6回の天下一を記録した。加賀藩を中心に栄えた。 印西派 吉田重綱・業茂の弟子、吉田重氏(源八郎、旧姓:葛巻、号:一水、法名:印西、一水軒印西)(永禄 5年(1562年) - 寛永15年(1638年)3月4日)を祖とする。重氏は近江国蒲生郡葛巻村(現滋賀県東近江市)に生まれる(吉田氏本拠の川守は近隣)。もと葛巻氏(吉田氏の近親であるとも伝わる)で、吉田重綱(出雲派)の養子となりその娘を妻としたという。後に養父と不仲になり、吉田業茂(左近右衛門派)に師事した。豊臣秀次、結城秀康、松平忠昌らにつかえ、後に徳川家康、秀忠、家光に拝謁した。 嫡子重信(久馬助)が旗本となり、家光ら将軍家弓術指南役となる。江戸、岡山藩、薩摩藩、遠州地方、福井藩など各地に広まる。江戸と岡山藩の印西派のみ「日置当流」と称される。日置弾正正次からの教義を血族には唯授一人、血縁関係の無い弟子には免許皆伝を与え、日置弾正の教義を次世代次世代へと伝えてきた射法。その土地の印西派の伝承者(つまり宗家)は、その世代にただ一人しか存在しない。免許皆伝者は複数居る場合もある。 一部の印西派を当流と呼ぶのは、江戸印西派の宗家が徳川将軍家の弓術指南役だった事からで、将軍家の流派という意味。また、岡山藩の印西派が当流と呼ばれる所以は、池田侯と当時の将軍が弓の勝負をした際に池田侯が勝利し、池田侯が当家でも「当流」と称させて欲しいと願い出たところ、将軍が褒美の意味で当流と称すことを許可した事から。 印西派は戦場で徒歩武者(歩兵の意)が用いる射法である「歩射」であり、本来は馬上で弓を引く「騎射」の射法である小笠原流とは根本的にその土台が異なる。印西派の本来の射法は「割膝(わりひざ)」という膝立ちの体勢で弓を引くものであり、戦場で敵方から放たれる矢を避けて身を隠しながら、瞬間的に身を起こし敵を射るのに非常に適している。 現代では、その割膝の練習段階とされる、立ったまま弓を引く「立射」の体勢が一般的である。 印西派の教えでは「貫(かん)・中(ちゅう)・久(きゅう)」の実践を最高とする。 「貫」は敵兵の鎧まで貫く強力な貫通力、「中」は百射百中の命中率、「久」は貫・中を永久に実践できることを意味する。つまり印西派は、弓矢が強力な武器であった時代において、戦場で戦う徒歩武者が如何に敵を射殺できるか、その鍛錬と戦場での実践のために編み出された射法であり、文字通り極めて実戦的かつ合理的なものである。 現代の弓道においては通常の競技において的中主義であるため、貫通力の相対的価値が下がっていることもあり、今日では「中・貫・久」の実践を最高としているが、本来は「貫・中・久」である。 印西派における射法の教えについて、物理学的・医学的等の見地からの研究が筑波大(旧東京教育大)で行われているが、その伝承されてきた事項について科学的な見地から否定されるものが一切発見されておらず、古来からの教えが戦場での経験に基づいた極めて合理的・科学的なことが裏付けられている。 的は日置霞(へきがすみ)と呼ばれる独特の模様の物を用い、多人数で射る場合も一つの的を全員で射るのが本来正式である。これは、集団で向かってくる敵兵の先頭の者を確実に射倒す事で、敵兵の戦意を削ぐ為である。 また、もし敵兵を射損じた場合でも、外れた矢が足元に突き刺さる方が、頭上を飛び越えて行くよりもより敵に恐怖感を与える事が出来るため、的は地面すれすれの低い場所に立てて稽古した。 近的用の的の大きさは人間の胴体の幅を想定しているとされている。それ故、上や下に外す事よりも、的の左や右に外す事の方が良くない事だとされている。 また、的は約15間(28m)先に設置するが、これは戦場での敵の位置を想定したものである。これは、直接攻撃用の武器の中で最も攻撃距離の長い槍が届かず、かつ遠すぎない距離である。 現在もこれらに習い、近的の場合は流派を問わず、直径一尺二寸(36cm)の的を15間(28m)先の低い位置に設置するのが一般的である。 徳山文右衛門から明治初期に免許を受けた浦上直置が創始した、「三分の二」とよばれる動作をとる浦上一派が現在関東を中心に活動している。「三分の二」とは、「打起し」から「引分け」てくる間、矢の高さが眉毛のあたりになった時に一度動きを止める動作である。しかしまた、「三分の二」を取らない昔ながらの印西派も各地に数多く残っている。 印西派の中でも薩摩日置、備前日置、遠州系等の系統は詳しく系譜をさかのぼる事が出来る。 有名な射手としては、弓道教本編集に関わり射法制定委員であった浦上榮範士十段、全日本弓道連盟副会長を務めた村上久範士十段、東京教育大学教授でドイツ武道連盟師範であった稲垣源四郎範士九段がいる。 大心派 吉田重高の弟子、田中秀次(号:大心)を祖とする。秀次は京都の人。 寿徳派 吉田重綱の弟子、木村寿徳を祖とする。 寿徳は近江国堅田の出身で、もと猪飼氏を称していた。 雪荷派(せっかは) 吉田重政の四男(異説あり)、吉田重勝(六左衛門、号:雪荷)(永正11年(1514年)- 天正18年(1590年))を祖とする。 上述のように吉田家と主君の六角義賢の間で家伝をめぐって争いが生じた折、家伝が絶えることを危惧した重政らが雪荷に奥義を授けて京都に移らせたという。 雪荷は仕官しなかったものの、多くの武将との交際が伝えられる。特に細川幽斎とは親しく、弓術を教授したほか、幽斎配下の故実家小笠原秀清(少斎)から故実・礼法を学んだという。天正18年(1590年)に77歳で没した地も細川氏領国の丹後国田辺であった。 子孫は津藩主の藤堂氏に仕え(扶持600石)、代々六左衛門を称し唯授一人の相伝を受け継いだ。津藩で手厚く保護され、近年まで道統が伝えられた。仙台藩、会津藩等にも伝わったほか、道雪派が分派した。雪荷から免許を受けた人物には、細川幽斎、蒲生氏郷、豊臣秀長・秀次、宇喜多秀家らの武将もいた。道雪派 吉田重勝(雪荷)の弟子、伴一安(喜左衛門、号:道雪)(元和7年(1621年)没)を祖とする。 道雪はもと建仁寺の下級僧侶で、後に細川幽斎に出仕した。雪荷は、門下で道雪が最も優れていたので道統を継がせようとしたが、道雪は固辞し、別に一派を立てることを願い許されたという。道雪の子孫が郡山藩に仕えたほか、高槻藩、会津藩、広島藩、熊本藩などに伝わった。 道雪は天正年間に根矢(鏃の付いた実戦用の矢。重いので遠くに飛ばすには不利)で三十三間堂の通し矢を行った。これが後の「根矢数」の起源となった。初期の通し矢では道雪派の門人が多くの記録を残している。
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