大和方面の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:43 UTC 版)
豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。 幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。大和方面軍は水野勝成を先鋒大将とし、松平忠輝、伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていた。 4月30日、大坂城内では、大和口から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩くことに決定した。 5月1日、豊臣軍では、後藤基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発した。 5月5日、大坂城の真南の天王寺に布陣した毛利、真田は、後藤が布陣した摂津の南東端に位置する平野まで出向き、翌払暁に道明寺付近に集結して国分の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つとの取り決めをした後、天王寺の自陣へ戻り宿営した。
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