幕絵の飾り方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/27 04:59 UTC 版)
山梨県博収蔵の2点の幕絵は破損や窶れ(やつれ)のため2004年(平成16年)に東京都渋谷区にある文化財修理の専門工房において修復が行われた。その際に行われた現物調査で幕絵には30センチメートルの「物見の穴」が開けられ、幕絵の一部には「礼」字、二代広重「洲崎汐干狩」の乳(吊るし手)には幕絵の管理者を記す文字が記されており、幕絵の上方は雨だれ、下方にはかすれによる痛みがあり、実際に大通りの露店に飾られていたことが確認された。 幕絵はいずれも後代の補修を経ているため正確な当初の形態は不明であるが、現在確認される寸法や麻布の継ぎ方、物見の穴の大きさや位置関係などから、幕絵は『甲陽軍鑑』などの軍学書に記される陣幕の故実礼法に基づいて製作されていたと考えられている。 『甲州道中記』や歌川広重『諸国祭礼尽双六』には実際に幕絵が飾られていた様子が記されており、幕絵は大通り両側の建物前に幕串を立て大通りを囲い込むように飾っていたと想定されている。 広重の描いた幕絵の原物は少ないが、甲府柳町三丁目の商家には伝歌川広重筆の東海道五十三次画稿39枚が伝来しており、これに関連して幕絵を管理した世話人幕番付も残されている。伝広重筆の肉筆画稿は幕絵の下書きで、東海道五十五駅を39枚の幕絵で構成している。画稿はすべて同じ寸法であることと、現存する幕絵の寸法がこれに一致することから、幕絵はすべて同じ寸法で製作されていたと考えられている。また、柳町大通りの総延長は195間で、この間に39枚の幕絵を飾ると一枚あたりの横幅は陣幕作法とほぼ一致する5間(約9メートル)に相当することから、甲府道祖神祭礼に際した幕絵の構成は当初から陣幕作法に基づいており、広重もそれに則して製作作業を行っていたと考えられ、『甲州日記』には陣幕儀礼とおぼしき記述も見られる。 また、二代広重「洲崎汐干狩」の乳には「東三」「岩彦前」「岩彦すさき弁天」の文字があり、「岩彦」は瀬戸物・醤油商の岩彦屋彦左衛門、「すさき弁天」は画題を意味すると考えられている。緑町一丁目東側の総延長は36間であるが、北から間口8間の「善兵衛」に続いて間口19間に岩彦屋前にあたり、「東三」は緑町一丁目東側三番目を意味すると考えられている。同じく東町一丁目西側の総延長は35.5間で、現存する幕絵の横幅から換算すると幕絵は11~12枚製作されたと考えられ、緑町一丁目に飾られた広重の浮世絵は11枚のシリーズである佐野屋嘉兵衛「江戸名所」が候補に考えられている。 『甲斐廼手振』、『甲州年中行事』には各町の幕絵画題が記されており、緑町では二丁目に曽我物語(後に淵里「頼朝一代記」)、八日町一・二丁目では歌川国虎「和漢名将伝」、同三丁目では「甲州道中宿々」、柳町一丁目では二代広重「田舎源氏」、同二・三丁目では岸連山「京都名所」、同三丁目では初代広重「東海道五十三駅」、同四丁目では月岡芳年「太閤記」、魚町三丁目では淵里「忠臣蔵」、連雀町では「千羽雀」、青沼町では「諸国名所」であったとされ、いずれも甲州街道沿いの町々にあたる。 江戸時代の地方城下町においては、多くが京都を発祥として全国に広まった巨大な山車を練り歩かせる形態が一般的で、山梨県内でも都留市四日市場に鎮座する生出神社(都留市四日市場)の例祭が発達した谷村城下町の八朔祭りにおいては山車が出されている。甲府道祖神祭礼において山車が用いられずに幕絵を飾る形式になった背景には、江戸時代の甲府城下では町触において甲府城下での上水を破損させる恐れのある大八車の使用を禁止していることから、当時甲府城下に存在していた甲府上水の破損を防止する意図であった可能性が考えられている。
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