手塚律蔵
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手塚 律蔵(てづか りつぞう、文政5年6月8日(1822年7月25日) - 明治11年(1878年)11月29日)は、日本の幕末から明治初期の洋学者、外交官である。名は謙。別名に瀬脇良弼、瀬脇寿人と呼ばれる。父は医師の手塚治孝(寿仙)、母は瀬脇氏。17歳からの4年間、長崎の高島秋帆に砲術を、21歳からの4年間は江戸の坪井信道に蘭学を学んだ。
経歴・人物
親族
長女の富子は高木兼寛の妻。
脚注
参考文献
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- 日本歴史学会『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。ISBN 4642031146。 NCID BN00412375。
- 安岡昭男『幕末維新大人名事典』新人物往来社〈下巻〉、2010年。ISBN 9784404037640。全国書誌番号:21776471。
外部リンク
- 手塚律蔵が木戸孝允におくった書簡 - 文化遺産オンライン
- 青山霊園- 手塚律蔵の墓(瀬脇寿人の名になっている。)
- 松田誠『成医会講習所の設立と福沢諭吉』 103巻、6号、東京慈恵会医科大学、2007年12月、507-513頁。hdl:10328/00019771 。 手塚律蔵の写真入りの紹介。
手塚律蔵
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「手塚律蔵」の解説
手塚律蔵は、シーボルトが見たという「建靖寧寺記」を記した『柳庵雑記』に比定される人物で、蕃書調所に勤務していたが、維新後に瀬脇寿人(せわきひさと)と名を改めた(岩崎克己「シーボルトの成吉思汗源義経説とその後世への影響」)。瀬脇は明治9(1876)~明治11(1878)までウラジオストク(浦潮港)の貿易事務官の任にあり、義経の事跡を探索し、その検証結果を『浦潮港日記』に綴った。ウラジオストクから170㎞ほど離れた東の蘇城(スーチャン・現パルチザンスク)を訪れ、付近に日本人墳墓や古跡が多く、寛永年間に日本人の武将が来てこの地方を支配したという伝承を聞き出した。また、伴信友の『中外経緯伝』によりながら考察を進めた。そして蘇城近くにハンガン崎という地名があることを聞き、ここは韃靼でもあるから、その武将とは判官・義経のことで、やがて蒙古を席巻し、元の世を起こしたという論理を展開している。しかし、満州の満を源満仲から採り、源氏の源から元と称したとするなど、状況証拠の羅列に終わっている。
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