蕃書調所の設立
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老中の阿部も西洋の学問受容の必要性を痛感していたため、安政2年(1855年)8月30日謹一郎は阿部より直々に洋学所頭取(校長)に任命された。蘭書翻訳・教育機関の構想を練り、勝麟太郎らとともに草案を作成し、同年9月蕃書調所設立案を提出した。この提案が元となり、安政4年(1857年)正月、蕃書調所が正式に開設されることとなった。 謹一郎は日本初の洋学研究教育機関として発足した蕃書調所頭取(校長)として、国内の著名な学者を招聘する。すでに蘭学者として高名だった箕作阮甫を教授として招いたのを始め、教授見習として三田藩の川本幸民、周防出身の手塚律蔵・村田蔵六(のちの大村益次郎。当時は宇和島藩に出仕)、薩摩藩の松木弘庵(のちの寺島宗則)、西周助(のちの西周)、津田真一郎(のちの津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(のちの中村敬宇)、加藤弘之ら、幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用した。 蕃書調所は当初、蘭書の翻訳を目的としたが、英語の隆盛を鑑み、英語・フランス語・ドイツ語の教授も行わせた。特に入獄中であった堀達之助の才能を惜しみ、謹一郎が便宜を図って出獄させ、日本最初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書』を作らせている。
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