蘭学者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 22:35 UTC 版)
大阪の医者、山木積善が文政11年(1828年)に刊行した『海内医林伝』は、主に京都と大阪在住の医師の名簿であるが、この中で橋本宗吉の項に「大坂ノ西洋学ハ宗吉ヨリ始マル」と書かれている。 寛政10年(1799年)の11月26日が、太陽暦の1月1日にあたり、大槻玄沢の蘭学塾である芝蘭堂ではこの日を「オランダ正月」と称して、祝う宴を開いた。このときの座興として東西蘭学者の番付がつくられた。この番付で、橋本は西の小結に挙げられている。 一方、地理の知識については、山村才助が厳しく批判している。『喝蘭新訳地球全図』について、師にあたる大槻玄沢がこれを入手。大槻が門弟の山村才助に添削を依頼したのであった。山村は、『六費弁誤』という小冊を記し、「橋本生ハ、ケダシ和蘭ノ書物ヲ読ミタル人ニハ非ズト見ユ」、「コノ地図ハ上ニ弁ズルゴトクニ夥シク臆説杜撰ヲナス」と痛烈に批判している。
※この「蘭学者として」の解説は、「橋本宗吉」の解説の一部です。
「蘭学者として」を含む「橋本宗吉」の記事については、「橋本宗吉」の概要を参照ください。
- 蘭学者としてのページへのリンク