17世紀 - 19世紀前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:06 UTC 版)
「日印関係」の記事における「17世紀 - 19世紀前半」の解説
日本の江戸時代初期である寛永年間に、播磨国高砂の商人である徳兵衛が「天竺」を訪れたとされ(ただしこの「天竺」も実際には東南アジアと見られる)、のちにはインドに渡航した「天竺徳兵衛」として様々な創作の題材となった。西洋を経由した現実的なインド情報も伝えられ、18世紀前半に著された西川如見『華夷通商考』や新井白石『西洋紀聞』『采覧異言』などの書籍は、三国世界観による「天竺」イメージを引き継ぎながらも「応帝亜(インデア)」や「莫臥爾(モウル)」を紹介した。18世紀初頭になると山村才助が『訂正増訳采覧異言』『印度亜志』を著し、蘭学者として収集したインド情報を記している。国名として挙げられる「モウル」はムガル帝国を指すと理解されている。 長崎の異国通詞の中には「モウル通詞」が設けられていた。これに関連して、17世紀後半には「モウル人」の乗った暹羅(シャム)船が来航した、あるいは「モウル人」の船員たちがオランダ船に乗ってシャムに渡ったとする記事が長崎の記録に散見されるが、この場合の「モウル人」はムスリムと解される。通詞たちが編纂した語彙・会話集『訳詞長短話』に見られる「モウル語」は、ムガル帝国の公用語として文書に用いられていたペルシア語であり、若干のヒンディー語・マレー語語彙なども含まれる。1803年には「ベンガル船」が長崎に来航している。 17世紀から19世紀にかけての時代(日本の江戸時代、インドのムガル帝国時代)、オランダ東インド会社を介して日本からインドへは大量の銅が(江戸時代前期に幕府が輸出を制限するまでは金・銀も)、インドから日本へはグジャラート産・コロマンデル産の綿布やベンガル産の絹が運ばれた。日本に定着した「更紗」(語源には諸説あるが、インドの語彙が伝わったとされる)、「天竺」(メリヤス編みの生地)や、ベンガル地方原産であることが語源の「ベンガラ縞」、カリカット(現在のコーリコード)が集産地であった「キャラコ」、「サントメ」と呼ばれたコロマンデル地方(代表的な港はチェンナイ)から輸出された「サントメ縞」や「サントメ革」、チャウルで生産された絹布に由来する「茶宇縞」などの名は、これらの品物や技術がインドに由来することを物語る。
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