蘭学者・英学者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 07:27 UTC 版)
文政8年(1825年)、陸奥国稗貫郡亀ヶ森村(現在の岩手県花巻市)に生まれる。安政3年(1856年)南部藩・江戸詰めとなり長州藩士大村益次郎のもと江戸の蘭学塾・鳩居堂で蘭学を学ぶ。勝安芳(勝海舟)、杉田玄瑞、大鳥圭介らと交友し、江戸・長州藩邸内で蘭学教授となり、木戸孝允や伊藤博文と親しくなる。しかし、讒言により江戸・南部藩邸内で捕らえられ、死刑の判決を受ける。しかし大村益次郎の計らいで刑の執行を免れた。 その後、長崎に行き、長崎出島でオランダ人の医者ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから英学を3年間学んだ。鳩居堂の仲間であるシーボルトの娘楠本イネも長崎に一緒に同行している。帰途、萩長州藩邸で蘭学と英学を若手藩士に教えていた。生徒には「長州ファイブ(長州五傑)」とよばれ文久3年(1863年)からイギリスに派遣されたメンバー(伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉)含まれていた。尚義は日本の「英学教育の始祖」と言われている。慶応2年(1866年)からは京都留守居役となり国家の動静の情報収集にあたっていた。尚義はこのように、江戸時代に蘭学や英学を学んだ「日本の先進的知識人」であった。この学問の基礎が尚義の維新後の人生を決めることになっていく。
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