蘭学受難の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 06:56 UTC 版)
蘭学興隆に伴い、幕府は天文方の高橋景保の建議を容れ、1811年に天文方に蛮書和解御用を設けて洋書を翻訳させたが、これは未完に終わった。 文政年間の1823年にはドイツ連邦からシーボルトが日本を訪れ、長崎の郊外に鳴滝塾を開き、高野長英や小関三英などの門下生を教えた。また1825年には薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーが来日し、シーボルトの下で働いた。 また、1833年には蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』が完成している。 そうした中で1844年(天保15年)、オランダ国王の使節が軍船で長崎に来訪し、江戸幕府に親書と贈答品を送った。しかしその内容は「貴国の福祉を増進せんことを勧告す」というものであった。 外国からの開国要求や圧力を警戒した江戸幕府により、政治・思想面では抑圧が加わり、シーボルト事件、蛮社の獄などの弾圧事件が起こり、続いて1849年、蘭書翻訳取締令が出された。
※この「蘭学受難の時代」の解説は、「蘭学」の解説の一部です。
「蘭学受難の時代」を含む「蘭学」の記事については、「蘭学」の概要を参照ください。
- 蘭学受難の時代のページへのリンク