蘭学の先駆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 06:56 UTC 版)
蘭学の先駆者としては、肥前国長崎生まれの西川如見がおり、1695年(元禄8年)、長崎で見聞したアジアなどの海外事情を通商関係の観点から記述した『華夷通商考』を著した。彼はまた、天文・暦算を林吉右衛門門下の小林義信に学んでおり、その学説は中国の天文学説を主としながらもヨーロッパ天文学説についても深い理解を寄せていた。当時の天文学者、渋川春海は平安時代以来の宣明暦を改め、貞享暦を作成している。 徳川吉宗将軍は洋書の禁を緩め、青木昆陽と野呂玄丈に蘭語習得を命じ、青木は「和蘭文訳」「和蘭文字略考」といったオランダ語の辞書や入門書を残し、野呂はやレンベルト・ドドエンス(1517年 – 1585年)やヨハネス・ヨンストン(1603年 – 1675年)の図鑑の抄訳を著した。この二人は共に蘭学の先駆者と呼ばれ、のちに書かれた杉田玄白の『蘭学事始』においてもこの二人の功績が記されている。 解剖学・医学書籍の内容についてはオランダ独自のものというわけではなく、当時のプロシア(ドイツ)の書物がオランダ語に訳され、それが日本に入ってきていた。そのプロシアの書物もアンダルス(イベリア半島一帯のイスラム圏)の書物が訳されたもので、そのアラブの書物も中世「暗黒時代」にヨーロッパから散逸したギリシャ以来の書物に由来した。それをまた西欧が翻訳し直して、自然科学の基礎が復活したのだった。 プロイセン王国で1722年に発行された医師ヨハン・アダム・クルムスの Anatomische Tabellen の1734年の蘭訳本 Ontleedkundige Tafelen(解剖図譜)を主な底本として、1774年、前野良沢と杉田玄白により『解体新書』が発行された。 その後の1796年、蘭学者の稲村三伯、宇田川玄随、岡田甫説が、蘭和辞書『ハルマ和解』(はるまわげ)を編纂刊行した。オランダ語の部分には当時は珍しい活版印刷が使用された。
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