再来日して正史として認めるよう懇願
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「再来日して正史として認めるよう懇願」の解説
シーボルトは「チンギス・ハンの伝説的な系譜を重要視しているわけではなく、憶測を逞しくしようとは思わず、義経が蒙古の戦場に登場することに推測を加えることで、歴史家の注目を集めたいのである」と結んでいる。追放処分から30年後再び来日(1861年)し、幕府の顧問になるが、西洋書籍の分析機関『蕃書調所』に勤めた西周 (啓蒙家)に再三に渡って「義経=ジンギスカン説」を正史として認めるよう薦めている。 蘭学者調所の教授手伝の大島総左衛門高任が手塚律蔵好盛とオランダの尺度エル(el)とフート(voet)のことで議論していたが、判らないのでシーボルトに質問すると、 フートは日本の尺と変わらず、元の太祖以下二世三世がヨーロッパに侵攻したとき、日本の尺度を彼らに伝えたからである。蒙古人がなぜ日本の尺度を用いたかと云えば、その太祖が日本人だったからに外ならず、彼の名は〇〇〇というが、圓牆を避けて蝦夷地に逃げたが、土人を征服したため益々兄の怒りを買い、討伐の風評に恐れをなして満州に渡った。ついで蒙古に入って一地を攻略し次第に近隣諸国を併合してついに國を元とした。自分が去年支那に渡航したとき、元の太祖の建立に関わる健靖寧寺記と題する碑文を示されたことがあるが、大意が上に述べた事であり、碑の側面には鳥居が刻んであった。因に明治にこの碑文が問題にされたとき、健セリュウ(青竜)寺記と聞き間違われ、義経の墓ともされてしまった。 大島は碑文を写し、西周もシーボルトからの太祖は義経、妖僧は弁慶と聞かされたが、信じなかった。蒙古字の碑文も示されたが、漢字、ラマ教の名があったと記されている。
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