立藩と万石事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/17 06:59 UTC 版)
幕末から明治維新の頃の当主である第20代・大沢基寿は、和宮親子内親王降嫁に際してはその付添役を務め、徳川慶喜の大政奉還ではその旨を朝廷に伝奏する重責をになう。さらに新政府軍の東征に際してその案内役を務めたことにより、新政府から従来どおりの堀江領3550石の知行を許される。明治元年(1868年)8月に新政府に対して行った検地報告で、敷知郡16村・豊田郡1村・山名郡1村からなる堀江領は実高5485石に過ぎなかったものの、基寿は浜名湖の湖面の一部を「開墾予定地」として架空の新田内高4521石を計上、都合1万6石という虚偽の報告を行なった。当時諸問題が山積していた新政府は、この報告を裏付けもとらずに額面通りに受理した結果、堀江領は万石を知行する諸侯(大名)に列し、同年9月18日に基寿は晴れて堀江藩主として認められることになる。そして翌明治2年(1869年)6月17日の版籍奉還と同時に出された「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」行政官布達54号により、基寿はあらたに設けられた華族の身分を得ることに成功する。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で堀江県が置かれると、基寿は堀江県知事に任じられた。この廃藩置県当時現在の静岡県内に存在したのは、韮山県(伊豆国)・静岡県(駿河国と遠江国の大部分)と、この堀江県の3県だけだった。 しかし、維新後あらたに立藩した16家のうち、徳川御三卿の3家と御三家の附家老5家、そして陪臣扱いだった岩国藩主吉川家の9家は維新以前にすでに万石以上を知行しており、維新後に石直しによって万石以上の知行となった交代寄合6家(本堂家・生駒家・山名家・池田家・平野家・山崎家)もそもそも表高が5千石から8千石の大身旗本だった。これに対して、表高3550石の高家にすぎない大沢家の取って付けたような1万6石への石直しはあまりにも無茶なものだった。そこで新政府が再調査を行ったところ、報告の虚偽が露見する。同年11月、基寿には士族へ落としたうえ禁錮1年、実際の虚偽申告を行った家臣5名は平民へ落としたうえ禁錮1年半という処罰が下る。また堀江県は、静岡県(当時)西部の遠江国部分を分割して新設した浜松県に合併され、大沢家20代約500年わたるこの地の支配は幕を閉じた。
※この「立藩と万石事件」の解説は、「堀江藩」の解説の一部です。
「立藩と万石事件」を含む「堀江藩」の記事については、「堀江藩」の概要を参照ください。
- 立藩と万石事件のページへのリンク