玉取藩
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玉取藩(たまとりはん)は、常陸国新治郡玉取(現在の茨城県つくば市玉取)付近を所領として、江戸時代前期に存在した藩。堀秀政の弟で、幕府の要職を務めた堀利重が、1622年に大名に列して成立した。1679年、3代藩主の堀通周が家臣を殺害する事件を起こし、所領が収公されて廃藩となった。
注釈
- ^ 利重と忠隣は姻戚関係にある。堀利重の正室は、本多康重と正室(石川家成の娘)の間に生まれた[2]。大久保忠隣の正室は石川家成の娘である[3]。すなわち石川家成から見たときに、忠隣は娘婿、利重は孫娘婿という関係になる[3]。なお、大久保忠隣失脚当時の石川家当主は、忠隣の二男である石川忠総(家成の子である石川康通の養子となった)であるが、「駿府の町屋に閉居」の処分であり、大坂の陣勃発に際して赦免されている[3]。
- ^ 封地について『寛政重修諸家譜』では「新治郡土浦にをいて」とある[5]。『徳川実紀』の廃藩時の記述では「常陸の内」とのみある[6]。『武家勧懲記』では、3代藩主・堀通周の所領について「常陸之内玉取并二安房上総之内ヲモ領ス」と記されている[7]。
- ^ 堀利重の娘が天方通直に嫁いで産んだ子が倶通である[8]。
出典
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十五「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1182。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十一「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.697。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第百十九「石川」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.718。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十五「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.1182-1183。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十五「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1183。
- ^ a b c 『厳有院殿御実紀』巻五十九・延宝七年十二月十一日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第三編』p.946。
- ^ 佐藤宏之 2004, p. 151.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百二十九「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.337。
- ^ a b c d e f “玉取村(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年12月13日閲覧。
- ^ a b “堀通周”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年12月13日閲覧。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十五「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1184。
- ^ “玉取藩(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年12月13日閲覧。
- ^ “玉取郷(中世)”. 角川地名大辞典. 2023年12月13日閲覧。
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