加藤氏にかかわる話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:14 UTC 版)
江戸時代、熊本藩の歴史の大半を占めたのは細川氏であったが、西南戦争で天守が焼失する様を地元の人は「清正公(せいしょこ)さんの城が燃えている…」と悲しんだといい、西南戦争の際、官軍の守る熊本城を攻め落とすことができなかった西郷隆盛は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったという。[要出典]このように、熊本城には加藤氏・加藤清正にかかわる話がある。 銀杏の木 「銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏(いちょう)の木である。これは、篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという。朝鮮出兵での蔚山城籠城戦で食料不足に苦しんだ経験を生かしていると言われているが、この銀杏の大木は雄木なので実はならず、城内を知らない者が後世創った俗説と考えられる。また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」とつぶやいたという言い伝えがある。明治時代、清正が植えた銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたが、明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場となった。現在の銀杏は二代目であるといわれる。 また、同様に篭城時の食料の確保に関して、清正は城内の建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗篭め、畳床には食用になる里芋茎を用いて備えたという。 替えの建材 細川家の治世中に、ある櫓の柱が腐ってしまった。交換のため櫓の解体をしたところ、「この柱はどこそこの池に替えの木材を沈めている」と書いてあり、指定の池を調べたところ、果たして木材が出てきて清正の準備のよさに驚いたとの逸話がある。いつ、どの櫓、どこの池というのが全く伝わっていない類の話ではあるが、城の管理者が細川家に移っても清正にかかわる話が創られていたことが伺える。 井戸 清正は水においても設計は手堅かった。朝鮮出兵における蔚山城籠城戦で、特に水で苦労したことから、城内に120箇所の井戸を掘り、籠城に備えている。どの井戸も規模が大きくて深く、しかも水量が豊かであった。これらは江戸時代を通じ、そして西南戦争で官軍が籠城した際にも使われ、官軍の勝因の一つとなった。 昭君之間 本丸御殿の最深部には、中国の故事に登場する王昭君の絵画(襖絵とも屏風絵とも言われる)のある「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋があった。この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、藩主の居間として使われていたようだが、一説によると、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であると言われている。“しょうくん”=“しょうぐん”(将軍)の意とする説がある(当時は濁点を打たないので、仮名で書けば同一になる)。表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのだという。 二の丸 重臣の屋敷や後に藩校も置かれた二の丸はそれらの間を縫うように街道(薩摩街道)を通らせる構造であった。江戸時代の最初期には薩摩藩島津家の大名行列もこの街道を利用していた。隣地とのこともあり加藤家と何かと反目していた当時の薩摩藩主、島津家久は他藩である熊本城内を鑓を立てて通る示威行為を行った。すると、すかさず街道沿いの全ての銃眼の戸を開き、銃口を向けて鑓を伏せさせたという話が残っている。島津家の大名行列は、後に領内より船で大坂へ渡るルートへと変更されたのでこの後、互いの領内でのトラブルはなくなったが、関ヶ原の戦い後の緊張感と熊本城の主な目的が伝わる逸話である。 石垣作り 江戸幕府の開初期、家康より江戸城の石垣普請で浅野家(浅野長晟)と加藤家は当時、沼地であった桜田から日比谷辺りに至り隣合って石垣工事を命じられた。浅野家は、早速工事にとりかかり期限より大分早く石垣を築き上げた。一方、加藤家は森本一久の進言によって予定地一面にアシなどのカヤを敷かせ、その上に砂利や土を被せて近所の10歳から14歳までの子供に開放して遊ばせた。その様子を他藩の人々は笑ったという。そうして、期限いっぱいかけて石垣を築き上げた。家康は、浅野家の素早い工事を褒め、浅野家の工事責任者には褒賞を与えた。ところが、翌、慶長19年(1614年)の大雨時に浅野家の工事区間の石垣は基底部から脆くも崩れたのに対し、隣の加藤家の工事区間の石垣はビクともせず、浅野家は再工事の出費がかかる上、恥をかくことになった、という逸話がある。この話は2代忠広の時のこととされている。 平成20年(2008年)に再建された本丸御殿の地質調査時に、この逸話を裏付ける調査結果が出た。現在の熊本城の本丸は版築による増築部があることが判明した。
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