石垣作り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:14 UTC 版)
江戸幕府の開初期、家康より江戸城の石垣普請で浅野家(浅野長晟)と加藤家は当時、沼地であった桜田から日比谷辺りに至り隣合って石垣工事を命じられた。浅野家は、早速工事にとりかかり期限より大分早く石垣を築き上げた。一方、加藤家は森本一久の進言によって予定地一面にアシなどのカヤを敷かせ、その上に砂利や土を被せて近所の10歳から14歳までの子供に開放して遊ばせた。その様子を他藩の人々は笑ったという。そうして、期限いっぱいかけて石垣を築き上げた。家康は、浅野家の素早い工事を褒め、浅野家の工事責任者には褒賞を与えた。ところが、翌、慶長19年(1614年)の大雨時に浅野家の工事区間の石垣は基底部から脆くも崩れたのに対し、隣の加藤家の工事区間の石垣はビクともせず、浅野家は再工事の出費がかかる上、恥をかくことになった、という逸話がある。この話は2代忠広の時のこととされている。
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